
かつて親戚の法事に出席した時、お坊さんの読経と講話を聞いたことがある。
それは珍しい体験ではなかったが、その時のお坊さんがかなり若い人だったので、内心失礼ながら大丈夫かなと思った。
経験不足で失敗しないか、という危惧を感じたのである。
読経は毎日訓練しているだろうから大丈夫かもしれないが、講話は人生体験がないと難しいと思った。
だが、その青年の僧侶は読経も講話も難なくこなしていた。
驚いたのは、講話が高齢のお坊さんが語るような知恵と教訓に満ちたものだったからである。
よどみなく、話から人生の知恵、教訓などを語る結論には、年上の私でもなるほどと思わされた。
何らかの講話用のテキストがあるのかどうか分からないが、危なげなく、その家にふさわしい話をするのは不思議でもあった。
語りの芸である落語のルーツに、この仏教の因果応報の説話や経典などがあることは知られている。
そのことは実際に法事の講話を聞くと納得できる気がする。
こうした教訓話や講話によって、法事の場のしめやかな雰囲気が醸し出されるだろうと思った。
それにしても、仏教という宗教精神が日本人の精神がかなり深く根付いていることを改めて感じた。
少なくとも、必ず誰しも経験する法事はその代表的なものだろう。
(羽)