トラック島壊滅で戦略価値失う
最後まで意地見せた残留部隊

基地攻略放棄した米
米軍はラバウル攻略に向け、マッカーサーの南西太平洋方面軍がニューギニアを東進、ハルゼーの南太平洋方面軍がソロモンを北上する二正面作戦(カートホイール作戦)を進めた。
昭和18年12月半ば、ハルゼーの部隊はブーゲンビル島に築いたタロキナ航空基地から連日ラバウルに激しい空襲をかけてきた。一方、マッカーサー隷下の部隊は同月15日、ニューブリテン島西南岸マーカス岬に、次いで26日には西端のグロスター岬のツルブに上陸した。防備に当たる陸軍第17師団は次第に圧迫され、後退を強いられた。
米軍上陸の報を受け、ラバウルの日本軍も地上戦を覚悟した。ところが米軍は陸海軍併せて12万人弱の兵が立て籠(こ)もるラバウル基地の攻略を放棄したのだ。
「1943年初頭、(海軍作戦部長)キング提督は、ラバウル要塞を占領するために、時間と人員を消費することが賢明であるかについて疑問を持っていた。ひとたびブーゲンビルの飛行場が使用できるようになれば、遥(はる)かに少ない犠牲でラバウルを爆撃によって無力化することができ」るからだ(『ニミッツの太平洋海戦史』)。
昭和18年8月、カナダのケベックで開かれた第4回米英参謀会議(クアドラント)において、中部太平洋反攻作戦の確認とラバウルの攻略中止が決定されていたのだ。ワシントンの関心正面は既にソロモンを離れ、中部太平洋の攻略に移っていた。同年9月末、日本が絶対国防圏を決定したちょうどその頃、ニミッツ太平洋方面軍総司令官はギルバートからマーシャル、カロリンへと攻め進む中部太平洋進攻作戦の日程を上申していた。
ラバウル攻略中止の作戦変更にマッカーサーは強い不満を表明したが、聞き入れられなかった。ハルゼーの提案を基に、米軍とニュージーランドの部隊はラバウルを含むビスマルク諸島全域を空襲圏に収めるため、昭和19年2月15日、ラバウル東方のグリーン諸島に上陸、日本軍守備隊約100人は玉砕した。同じ頃マッカーサー麾下(きか)の部隊もラバウル西方アドミラルティ諸島の日本軍を制圧し、ここにラバウルは完全に封じ込められた。
零戦などを復元再製

米軍地上部隊による占領作戦は中止されたが、後方連絡線を絶たれ孤立したラバウルへの米軍機の空襲は年が明けると激しさを増し、200機を超える日も増えた。そうした最中の昭和19年2月17日、トラック島が空母9隻を旗艦とする米機動部隊の大空襲を受け壊滅的打撃を蒙(こうむ)った。
米軍のトラック来攻近しと見た古賀峯一連合艦隊司令長官は、直前に主要艦艇をパラオ方面に避退させていたが、取り残された輸送船など40隻以上が2日にわたる米軍の攻撃で沈められ、航空機300機を一挙に失った。
攻撃絶対主義という日本海軍の悪弊から、戦況が逼迫(ひっぱく)するこの時期に及んでもトラックの防空体制は驚くほど無力無防備であった。米軍に周囲を包囲され、しかも後方の根拠地トラック島が壊滅したことで、ラバウルはその戦略的な価値を完全に喪失した。
この事態を受け、連合艦隊司令部はラバウルからの航空部隊撤収を決断。2月20日、各機に爆弾や兵器を満載し、第253航空隊など七つの航空部隊がトラックに引き揚げていった。地上整備員らは2回に分け船便での移動となり、前日の19日、第1陣の輸送船2隻が駆逐艦に護衛されラバウルを出港した。船には航空隊員の半数と婦女子など約2千人が同乗したが、米軍機に発見され輸送船2隻とも沈没、乗船者のほとんどが助からなかった。
そのため、第2陣の引き揚げは中止される。残留となった約3500人の航空関係要員はニューブリテン島所在の陸軍部隊と同様、終戦までの1年半、自給自活生活を強いられた。
米軍への警戒と食糧確保のための農作業に従事する傍ら、残留者は第105航空隊と第108航空廠(しょう)を解隊、損傷した航空機などから部品取りして零戦7機と97艦攻2機を復元再製し飛行訓練を再開。アドミラルティ諸島への偵察飛行を繰り返したほか、泊地や飛行場への爆撃も敢行し、ラバウル海軍航空隊の意地を見せた。このとき復元再製された零戦1機(複座偵察用)が国立科学博物館に今も展示されている。
古関裕而が称える曲

昭和18年10月、作曲家古関裕而はNHKの吉田信音楽部長から「ラバウルにある海軍航空隊は、最前線基地として華々しく大活躍して成果を挙げている。この部隊を称(たた)え、また国民の沈滞する士気を鼓舞するような明るい作曲をしてもらいたい」との依頼を受け、応諾する。
「私は(作詞家佐伯孝夫の)…三番の詞が、独特の詩心があって実によいと思い、乗り気になった。…今まで陸、海軍の曲は短調が多かったが、これは思いきって長調にした。これがすこぶる歯切れのよい、リズムにのった勇壮な歌になったので、放送局では繰り返し放送し、たちまち全国で歌われ出した」(「古関裕而自伝:鐘よ鳴り響け」より)
海軍精神燃えたつ闘魂いざ見よ南の輝く太陽
雲に波に敵を破り轟(とどろ)くその名ラバウル航空隊
古関が気に入った3番の歌詞である。翌19年初めレコードも発売され、大ヒットとなった。だが、日本中にこの曲が流れ、遠き南方での航空隊の勇戦ぶりに国民が思いを馳(は)せていた頃、幾多のエースパイロットを生んだラバウル海軍航空隊は既に壊滅していたのである。
(毎月1回掲載)
戦略史家 東山恭三