トップコラム赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(44)あゝラバウル海軍航空隊(上)

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(44)あゝラバウル海軍航空隊(上)

過酷な2正面作戦強いられる

ラバウルの零戦部隊

連日出撃を繰り返す

太平洋戦争中、ラバウルには多くの部隊が展開したが、その中でも特に馴染(なじ)み深いのが「ラバウル海軍航空隊」であろう。開戦劈頭(へきとう)の昭和17年1月、日本海軍は南方作戦の一環として豪州の委任統治領ニューブリテン島を制圧し、同島北東端ラバウルにある連合軍の航空基地を攻略、接収した。南太平洋における海軍の拠点トラック島を守るためである。

そして2月には主力となる第24航空戦隊の司令部が進出し、ここにいわゆる「ラバウル海軍航空隊」が誕生する。ラバウルの名を冠した特定の航空隊があったわけではなく、その名は、この基地に展開する戦闘機や陸上攻撃機などの各航空部隊に対する総称である。

ラバウルには、港の東側と西側の山上に、二つの飛行場があった。東の第1飛行場は戦闘機隊、西の第2飛行場は主に陸上攻撃機(中攻)隊が使用した。その後、第3、第4(南)、北飛行場も整備された。第4飛行場と北飛行場には昭和17年10月以降、陸軍の航空隊も逐次進出。またラバウル港には第八艦隊や南東方面艦隊などの司令部が置かれた。

ラバウル占領直後、大本営から連合艦隊に対し、ニューギニアおよびソロモン諸島攻略の指示が出された。連合軍のラバウル空襲を防ぎ、また米豪遮断の目的も加わって、ラバウルはソロモンとニューギニアの2正面航空作戦の根拠地となる。

トラックを守るためラバウルへ、次いでラバウルを守るため戦線がさらに拡大されたのだ。そして昭和17年2月、ニューギニア島東南ポートモレスビーへの攻撃を開始。8月からはガダルカナル島奪還のため連日出撃を繰り返し、大規模な航空消耗戦に突入する。

ラバウルからガダルカナルまでは約千キロ(560海里)。空戦能力では圧倒的に日本が勝っていたが、戦闘機の進出距離は560キロ(300海里)程度とされており、その約2倍、しかも途中に飛行場は一切なく零戦の航続距離ギリギリでの運用となり、ガダルカナル上空での戦闘時間は十数分程度と限られた。

そのため急遽(きゅうきょ)中継の飛行場造りが始まった。17年8月末にはブーゲンビル島北端のブカに飛行場が完成。10月には同島南端ブイン基地の運用が開始され、ラバウルから航空隊が進出、ラバウル、ブカ、ブイン全体を称してラバウル海軍航空隊と呼ばれるようになる。このほかブイン沖合のショートランドには、水上機基地があった。

ブイン基地の完成で、ガダルカナルへの距離は20海里以上短縮された。だが密林を切り開いただけでレーダーなどの設備はなく、しかも周囲は鬱蒼(うっそう)たる密林でマラリアなどに罹患(りかん)する搭乗員が相次いだ。

逆転した航空戦力差

また当初、1機対敵3機までは十分に勝算があった搭乗員の技量と零戦の性能だったが、米軍は4機の戦闘機が2機ずつ組を作り零戦1機に対応するサッチウィーブ戦法で対抗するようになる。一方、我が方は補充が続かず、1対3が5や7になる戦闘を強いられた。

しかも米軍はF6FヘルキャットやF4Uコルセアなど高性能戦闘機を続々と投入し、日米の航空戦力差は急速に縮まっていった。米軍と異なり、十分な休養も与えられず連日の出撃を強いられ、ラバウルの航空部隊は多くの搭乗員と航空機を失っていく。

昭和18年2月初頭、遂(つい)に日本軍はガダルカナル島から撤退、4月には山本五十六連合艦隊司令長官がブイン上空で戦死を遂げた。暗号が漏れており、6機の護衛戦闘機だけでは山本長官や宇垣纏参謀長が乗る2機の一式陸攻を守り切れなかった。

その後もラバウルの戦闘機隊はニューギニア東部や中部ソロモンに向かう陸軍輸送船団の上空直掩(ちょくえん)や制空戦闘の任務に従事するが、過酷な2正面作戦を強いられた上、質量とも日本軍を圧倒する米軍航空機部隊の前に苦戦する日々が続いた。

ガダルカナル島争奪戦が繰り広げられた昭和17年8月から翌年2月までの約半年間に、海軍は千機近い航空機を失った。同時期の米軍の喪失機数の5倍以上で、日米の航空機生産力の優劣が問われる以前の凄(すさ)まじい損耗だった。い号作戦やろ号作戦に際し、また不足する航空機や搭乗員補充のため、4度にわたり空母機動部隊の艦載機計約570機がラバウルに進出、陸揚げされ、基地航空隊として運用された。

米軍機の大規模空襲

ラバウル航空部隊の奮戦もむなしく、ソロモン諸島北上を続ける米軍の攻撃の前に、コロンバンガラ、ベララベラなどの我が守備隊は次々に撤退。昭和18年10月にはブインの航空隊がラバウルに引き揚げた。同じ頃ニューギニア方面からラバウルに飛来する米軍機の大空襲が始まり、1日に100機を超えることも多くなった。

さらに11月1日、ブーゲンビル島に上陸した米軍は、ラバウル空襲の拠点として同島タロキナに飛行場建設を始める。ラバウルまでの距離は僅(わず)かに400キロ。

11月5日、ラバウルは空母サラトガを旗艦とする米機動部隊の航空機約100機の攻撃を受けた。零戦約70機が反撃したが、トラックから進出したばかりの栗田艦隊の重巡洋艦5隻などが損傷した。ラバウルが米艦載機の攻撃を受けたのは、これが初めてであった。

ラバウルの航空部隊は、ブーゲンビル島沖海戦(10月31日)に参加、11月上旬には6次にわたりブーゲンビル島沖航空戦を繰り広げたが、米艦隊の撃破もタロキナ飛行場の建設阻止も果たせなかった。そして11月17日からは完成したタロキナ基地から発進する米軍機による大規模なラバウル空襲が開始される。

(毎月1回掲載)

戦略史家東山恭三

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