この歴史と伝統ある日本国の首相が今日、石破茂氏か、と考えると、溜(た)め息交じりに早く辞任を、と願う国民は少なくない。
自身が解散権を発動させた3年ぶりの衆院選なのに、自公過半数を割り込む惨敗を招いた。結果に対しても無責任で、首相に居座るありさまだった。
その後、自身が選出される国会での首相指名選挙では前代未聞の居眠り。ペルーでのAPEC首脳会議に出掛けては、着席して独りでスマホに目を落とし、各国首脳らが挨拶(あいさつ)に来ても座ったままで握手――。1億2千万の日本国民を代表するに非礼極まりない、その象徴的な映像は世界を駆け巡った。
もはや石破氏の首相としての器は、歴代最低の評価を争い、その相場は決まっている。
国際舞台では石破氏の一挙手一投足がリスクとなり、謹慎がふさわしい。中国からは観光ビザの要件緩和を引き出され、USスチール買収ではバイデン大統領による禁止措置を食らった。
いずれも石破政権の脆弱(ぜいじゃく)性を見透かされた結果に他ならない。
政権は発足以来100日余りだが、すでに国民は政権がもたらすリスクこそ警戒すべきだ。その上で、主権在民の原則から、民意反映の政治実現に向け歩を進めなければならない。
内政に目を転じると、「103万円の壁突破」など、所得税制改正も俎上(そじょう)に載った。
一方、「選択的夫婦別姓」の法制化に逸(はや)る議論が、民意軽視の下に進み、危機感を駆り立てられる。
同議論は本来、家族の在り方や、戸籍制度など、日常生活に関わり、また過去から現在を経て後世に血縁を継いでいく日本の社会形成の根幹にも関わる。だがそれらとは裏腹に、表面的な政治交渉が国民意識と乖離(かいり)したところにある。左派政党、また自公を含めた左派政治家らが法制化を主導、国家観や歴史の大局観に欠ける石破政権が、押し流される形だ。
「夫婦同姓制度」は民法750条に基づく。男女平等に配慮され、婚姻に伴い夫婦は、夫または妻の姓を同姓として名乗ることと定める。日本における氏の相続、家族の一体性を支えてきた。
婚姻の際、慣習的には妻が夫の姓に変更するケースが95%である。ここ数十年、姓の変更に伴う主に女性の不便も考慮され、戸籍上の姓とは別に、「旧姓の通称使用制度」が順次整備され、適用されてきたのである。
推進する政治屋は、選択的だからと警戒感を緩めようと試みる。だが一旦夫婦が別姓を選択すれば、生まれてくる子は、必然的にいずれかの親との別姓が運命付けられる。兄弟姉妹同士が、どういう姓の構成になるか、いかなる秩序も保障されない。安易な導入への誘導は詭弁(きべん)だ。
それで最近、現役世代の近視眼的な見方と別に、小中学生の世代の半数が「家族で名字が変わるのは反対」とする有用な調査結果も新しく発表された。
石破氏は首相就任当初、「国民の共感と納得」に努めると述べたはずだ。忘れたとは言わせない。少数与党に付け込む声高な左派政治に流されず、サイレント・マジョリティーに思いを馳(は)せ、慎重に対処すべきだ。国民の側も、民意を政治に反映させられるよう、今や声を上げなければならない。(駿馬)