
最近は話題になることも減ったが、きょうは赤穂浪士討ち入りの日。元禄15(1702)年のことだ。一部の赤穂浪士が吉良上野介義央(よしなか)を殺害した。前年3月14日、浅野内匠頭長矩(ながのり)が吉良への殺人未遂事件を起こした。場所は江戸城中、勅使を接待する儀式の進行中だ。
浅野は即日切腹、吉良にはお咎(とが)めなしとの結果となった。事件には何かの事情がある。考えられることの一つが、賄賂の問題だ。吉良は高家筆頭で幕府の儀式担当の責任者。吉良が先生、浅野は学生の立場だ。
当時は賄賂が当然の時代。吉良は賄賂の粗末さに不満だった様子だ。事件の4年前にも、浅野と同様、勅使接待役の津和野藩主(4万3000石)も吉良を斬ろうとしたが、家老が賄賂を贈ったので無事に済んだ(児玉幸多著『日本の歴史16』中公文庫)。
事件から300年後の今は、特に政治の場面では金品の授受に関して厳しいルールがある。時代の違いは仕方がない。貪欲だが経済力は低い吉良(4200石/61歳)と、賄賂の問題に必ずしも敏感ではなかった浅野(5万3000石/35歳)の隠微な対立。
津和野藩のように家老が介入すればよかったのだろうが、藩主と家老との間のコミュニケーションが結果としてなかったことも事実だ。
「賄賂=善」の時代と令和の時代の落差は大きい。「現在の価値観で過去を裁いてはならない」という鉄則が歴史学にはあるが、この言葉は素直に受け止めるしかなさそうだ。






