作家の島尾敏雄が戦時中、所属していた部隊は震洋艇を抱えた特攻隊で、死は避けられなかった。派遣されたのは奄美群島の加計(かけ)呂麻(ろま)という小島。だが敗戦が奇跡をもたらし、島尾は生き残った。
その後、神戸で暮らし、島で出会った娘と結婚し、東京で暮らしたが、再び奄美に戻って長い歳月をそこで過ごした。両親は福島県の出身で、関東以西に親戚はなかった。
これを、すでに定められていたものとして島尾は受け入れたのだ。加計呂麻に派遣されて島の肌触りを感じた時、この島を知っていたような気持ちになったという。「南島通信」という随筆でこう記している。
「私の所有する苗字が一種の呪力を持ち、日本列島をしだいにその尾部の方に、言い換えれば島尻の方に私が南下しなければならぬことは、すでに定められていたことだと言えなくもない」
二つの土地には共通点があった。東北は蝦夷(えぞ)であり、奄美群島もまた、倭人の生活の浸透の希薄なところ。列島の北端と南端は共通の体験を営み続けていて、その記憶を掘り起こすことが可能な地。島尾は倭と重なる日本国は息苦しくて仕方がなかったという。
南の島はどことなく風通しがよくて、外に開けた世界があり、ほどよい大きさの中で陽気に大胆に、時には気難しくはにかみ、おとぎ話のような歴史が日常を織り成してきたという。
彼の人生も神話の中のドラマのようだ。
(岳)