トップコラム赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(42)海軍の戦線拡大症候群(上)

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(42)海軍の戦線拡大症候群(上)

二正面作戦に固執し戦力分散

サイパンなど後方の守備疎かに

サイパン島に進出した米軍のB29爆撃機

絶対国防圏すぐ瓦解

海軍は設定された絶対国防圏を事実上無視し戦線縮小に応じず、現状の線、即ち、国防圏の外郭に当たる当時の最前線死守に拘(こだわ)り続けた。だが国防圏設定から半年も経ずして、米軍の本格反攻の前に中部太平洋のマーシャル・ギルバート、さらにソロモンはおろかラバウルからも撤退を余儀なくされた。

しかもその間、海軍はなおも広大な最前線に兵力を分散注入し続け、新大綱が重視した守りを固めるべき後方要域に関心を払わなかった。そもそも海軍は開戦以来、後方地域の防衛という重要な問題を等閑にし続けていたのだ。

そのため開戦から数年を経ても無防備に近いままの状態に置かれたトラックやパラオは、米軍の攻撃を受けるや忽(たちま)ち壊滅した。マリアナの防衛にも意を払わなかった。サイパンが落ちれば、日本本土がB29の空襲圏内に入ることを承知していたにも拘(かか)わらずである。

当然の如(ごと)く陸軍はマリアナの防衛強化を説いたが、海軍は太平洋正面の作戦に陸軍が口を挟むことを嫌った。太平洋は自らの縄張りであるかの如き意識でいたのだ。実情を知らされぬ東条英機首相は、サイパン島の防衛体制強化は順調に進捗(しんちょく)していると信じ、「サイパンは難攻不落、米軍が来たならば飛んで火にいる…」と豪語した。

石原莞爾(元陸軍中将)

だが、現実にはサイパンの防備は一向に進まず、防衛の主力を担う第43師団のサイパン到着は米軍上陸の僅(わず)か一月前の昭和19年5月20日。態勢を整える前に米軍の侵攻を受け守備隊は玉砕、一月で島は陥落し、同年秋からB29の日本本土空襲が始まった。戦線の拡大維持ばかりに固執し、後方を疎(おろそ)かにして大局を見誤った海軍の罪は極めて重い。

連合艦隊司令部が絶対国防圏や戦線縮小に頑強に抵抗した背景には、昭和期日本海軍の作戦指導における極端な膨張気質が関わっていた。対米戦已(や)む無しの状況に日本を追い込んだ大きな責任は陸軍にあるが、太平洋での戦いで膨大な人的犠牲と国力の消尽を招き、遂(つい)には日本を滅亡に追いやった責めは海軍が負わねばならない。なぜそのような病根が生まれたか、開戦以来の経緯を踏まえ考察を加えたい。

消耗戦にのめり込む

開戦直後の昭和17年1月、ラバウルを攻略した海軍はトラックからラバウルに航空部隊を進めた。そして米豪遮断方針の下、ラバウルからソロモンを通り過ぎさらに西進、フィジー・サモアの線まで戦線の拡大を企図する(FS作戦)。同時に豪州の占領も考え出し、それどころか山本五十六の連合艦隊司令部は真珠湾制圧を視野に入れ出すありさまであった。

ミッドウェイの大敗でFS作戦は断念したが、ソロモン進出に動く。その際、航空作戦での戦線延伸は数百キロ程度が常識のところ、ラバウルから一挙に千キロも先のガダルカナルに進出、その間、使用可能な飛行場は皆無だった。あわよくば再びフィジー方面をめざそうとの下心が潜んでいたのだ。補給を無視し航続距離の限界まで戦線を押し広げるこの無謀さが、ガダルカナル争奪戦での劣勢と苦戦の種となる。

しかも海軍はガ島戦で苦しみながら、二正面作戦に出てニューギニア(ポートモレスビー)攻略にも執念を燃やす。ソロモンとニューギニアの攻略は、米豪遮断に加え、ラバウルへの空襲を防ぐ狙いもあった。だが二兎(にと)を追い続けた海軍は、絶対に避けるべきだった長期消耗戦にのめり込み、大量の航空機と優秀な搭乗員を失っていった。

その上、自らが始めたソロモン、ニューギニア作戦が行き詰まるや陸軍を引っ張り込み、多くの将兵が地上戦に投入された。開戦前には想定もしていなかった地域での戦いを強いられた陸軍は、火力と機動力を誇る米軍に苦しめられたばかりか飢餓と疫病にも襲われた。

だが海軍は、ソロモンとニューギニアの二正面作戦を見直し、戦線を縮小させようとはしなかった。昭和18年後半、米軍の本格的反攻が始まるが、戦線を遠方まで広げ過ぎたため補給増援は果たせず、一部では撤収に成功したが、多くの島々では兵力で勝る米軍によって守備隊は各個撃破され、玉砕や餓死が相次ぐようになる。

日本軍は戦争に負けた理由に、我を圧倒する程の米軍の兵員物資の膨大さを挙げるのが常だが、その米軍を相手にして劣勢に立つ日本軍の側が兵力の分散配置を重ねていたのだから、お話にならない。結局、ソロモンもニューギニアも手に入れることは出来なかった。

軍中央の統制乏しく

「石油欲しさに戦争を始めやがって」と石原莞爾が唾棄した通り、そもそも太平洋戦争は米国に止められた石油などの資源を確保するため、苦し紛れに始めた戦争だった。政府と軍、さらに陸海軍間の統一も図れず、一本化された政軍戦略無きまま「もはや已(や)む無し」となし崩し的に開戦に踏み切った。

そのため強い政治指導も軍中央の統制も乏しく、現場の作戦指導にタガをはめるものは無かった。その結果、関東軍が陸軍中央を無視したのと同様、現場を任された山本五十六の連合艦隊が暴走したのだ。

国家の体を為(な)していない昭和前期の国家構造の下、野放図に戦線を押し広げた海軍の行動は連合艦隊だけの責任と言えないかもしれない。だが大戦略は無くとも、曖昧とはいえ南方資源地帯を確保し、本土との輸送態勢を固め、長期持久の戦いを目指すという程度の作戦方針はあった。海軍によるフィジーやサモア、さらに真珠湾からアリューシャン列島の占拠が、果たして南方資源地帯を確保する上で必須の戦域であったろうか。

(毎月1回掲載)

戦略史家東山恭三

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »