久しぶりに近所の遊歩道を歩くと、樹木がすっかり黄葉し、鈴なりの柿の実を野鳥がついばんでいた。のどかな日本の秋景色にしばし散歩の足を止めて眺め入った。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という正岡子規のよく知られた句が浮かんでくる。子規は病床にあっても食欲旺盛な健啖(けんたん)家だったが、特に柿は大好物だった。
この春、子規の弟子で歌人、小説家の長塚節(たかし)の生家(茨城県常総市)を訪ねると、茅葺(かやぶき)の母屋の横に大きな柿の木があった。案内の人によると樹齢200年ほどで、節は毎年、実がなると子規に贈っていたという。子規の口にも入った柿、どんな味がするか食べたくなった。
明治30年10月10日、子規は京都清水(きよみず)の産寧(さんねい)坂に庵(いおり)を結ぶ旧知の禅僧で歌人、天田愚庵(あまだぐあん)からも柿を贈られている。「つりがねの蔕(へた)のところが渋かりき」「御仏に供へあまりの柿十五」などの句をその日の日記に記した。贈られた柿は「つりがね」と呼ばれる文字通り釣り鐘型のものだった。
この年、子規は既に結核で病床にあったが、「俳人蕪村」の連載を「日本」紙上に連載するなど旺盛な執筆活動を続けていた。そして翌年2月には「歌よみに与ふる書」の連載を開始し、いよいよ短歌革新運動に本格的に乗り出すのである。
当時は死病と言われた結核を患いながらも、子規の生涯最大の仕事はこの頃から始まっている。大事業を遂行できた支えの一つが、日本の美味(おい)しい果物だったのかもしれない。