トップコラム沖縄戦の特攻隊長 伊舎堂用久

沖縄戦の特攻隊長 伊舎堂用久

沖縄戦(Wikipediaより)

熾烈(しれつ)を極めた沖縄戦で大きな戦果を挙げたにもかかわらず、国民ましてや沖縄県民にすらあまり知られていない人物がいる。

太平洋戦争が終盤に差し掛かった1945年3月、沖縄本島への上陸作戦を間近に控えた米軍は、先立って慶良間諸島への上陸を開始。この時、石垣島の陸軍飛行場「白保基地」から、特別攻撃隊第一号として飛び立ったのが伊舎堂用久中佐(当時24)=戦死時大尉(2階級特進)=である。

石垣島出身の伊舎堂は中学卒業と同時に島を出て陸軍士官学校へと進学。地上兵として訓練を積むも、卒業を前に航空兵科へ移りパイロットとして腕を磨いた。

卒業後、全国各地での訓練を経て台湾へと異動した伊舎堂に、本部から特攻隊結成の知らせが届く。自ら志願し、誠第十七飛行隊の隊長となった伊舎堂は、米軍が硫黄島に上陸し、戦火が激しさを増した45年2月、故郷・石垣島へと戻り、出撃の時を待った。

そして訪れた運命の3月26日、伊舎堂率いる誠第十七飛行隊4機および、独立飛行第二十三中隊の6機による特攻が行われた。これにより、全5隻の米艦艇に甚大な損害をもたらした。

しかし、彼の功績の多くは戦後広く知られることはなかった。そのような中でも遺族らによる懸命な顕彰活動が続けられた結果、戦後68年目の2013年8月、石垣島に「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」が建立され、慰霊祭が行われるようになった。

「特攻が行われている間は艦砲射撃がやむため、壕(ごう)の外で水や食料を運搬できた」とする生存者の証言を何度か耳にしたことがある。伊舎堂ら特攻隊員が命を懸けて繋(つな)いだ平和への強い思いは忘れることなく、後世へ遺(のこ)していかなければならないだろう。

(K)

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