「春は桜よ/秋なら紅葉(もみじ)」と「田原坂」は歌う。しかし、春も秋も昨今の温暖化で短くなった。それでも、春や秋がなくなったわけではない。「秋=紅葉」という日本の文化は変わらない。
紅葉にまつわる歌と言えば、猿丸大夫の「奥山に/紅葉踏み分け/鳴く鹿の/声きくときぞ/秋はかなしき」があまりに有名だ。『百人一首』にも収録されていることで知られる。猿丸大夫(平安時代前期)の人物像は不明。神職集団が、自身らの出自を誇示したことから生まれた名前とも言われる。素朴だが、紅葉の季節を代表する名作だ。
『百人一首』の“編集長”は藤原定家(鎌倉時代)。その定家は「見渡せば/花も紅葉も/なかりけり/浦の苫屋(とまや)の/秋の夕暮」という歌を残している。苫屋は「粗末な小屋」のこと。
「紅葉がない秋の夕暮れ」を歌う。眼(め)の前には紅葉などないのだが、紅葉はかつてあったに違いないし、いずれあるかもしれない。「ないけれどもある」と定家は歌った。
これに噛(か)みついたのが小林秀雄(1983年没)だ。この歌を「美食家のたわごと」と切って捨てた(42年)が、80年後の21世紀の評価はだいぶ違う。「紅葉が実際にあるかどうか、そんなことはどうでもいい。紅葉の不在を言うことで、紅葉そのものを十分に表現している」というのが当今の流れだ。
作品の評価が変化するのは自然なこと。小林も「今はそんなことになっているのか」と案外サッパリしているだろう。