Homeコラム赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(41)絶対国防圏の設定(下)

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(41)絶対国防圏の設定(下)

連合艦隊司令部、戦線縮小に反対

艦隊決戦に固執した古賀峯一長官

漸減邀撃構想に執着

連合軍の本格的反攻を前に、戦勢逆転の見込みのない南太平洋でこれ以上の戦力消耗は甘受し得ずとする陸軍参謀本部は、戦略的後退と戦線の縮小を図り、所要戦力の維持整備と国力の造成に務めるべきだと考えた。

だが、連合艦隊司令部は戦線縮小に強く反対、国力の造成整備は二の次にしても、現在の態勢を崩すことなく、努めて早期に中部太平洋のマーシャル、ギルバート方面で海上決戦に持ち込み米艦隊を撃破、反攻の機会を掴(つか)むべきだと主張した。対米戦略の基本とする漸減邀撃(ようげき)構想に執着する連合艦隊は、想定する決戦海域の放棄を受け容(い)れることができなかった。

古賀峯一連合艦隊司令長官

古賀峯一連合艦隊司令長官はマーシャル、ギルバートだけでなく、米軍と日々死闘を続けているソロモン諸島やラバウルも国防圏の外に置こうとする中央に怒りを爆発させた。ソロモン、ラバウルを手放せばマーシャル、ギルバートでの海上決戦が不可能となるばかりか、中部カロリンまで連合軍の制空権内に入り、トラック島は連合艦隊前進拠点としての機能を喪失、戦線が一挙にパラオ、フィリピンの線まで後退を余儀なくされることを恐れたのだ。

要するに絶対国防圏を確保するためには、その外郭をも死守する必要があるというのが連合艦隊の主張であった。だがこの理屈を盾に、海軍は開戦以来、野放図とも言えるほどに戦線を拡大させ続けてきた。トラックを守るにはその先のラバウルを手に入れねばならず、ラバウルを米豪軍機の空襲圏外に置き安全を確保するには、さらに遠方のソロモン諸島やフィジー・サモア、ニューギニアの攻略制圧が必要になるという具合だ。

古賀長官が軍令部作戦課の幕僚に投げ付けた次の言葉が、海軍の膨張体質を物語っている。

「ラバウル、ニューギニアを失って、トラックに連合艦隊がおれるか。トラックに艦隊がおれない場合、太平洋作戦をどうするのか。…私は陛下のご信任を得ているので、死ぬまではやる。…ソロモンは確保しなきゃいかん」

だが古賀が如何(いか)に強硬に反対しようとも、粛々と絶対国防圏は設定された。その結果、前回見たように、連合艦隊司令部の意に反し、マーシャル、ギルバート、ソロモン、それにラバウルはいずれも死守すべき国防圏から外されたのだが…。

設定無視の中央協定

昭和18年9月30日、新たな戦争指導大綱で絶対国防圏が設定されたことを受け、同日付で陸海軍は作戦指導に関する中央協定を結んだ。その一つである「中南部太平洋方面作戦陸海軍中央協定」では「東部ニューギニア以東ソロモン群島ニ亘ル南東方面ノ要域ニ於テ来攻スル敵ヲ撃破シテ極力持久ヲ策ス」ことが定められた。

また「南東方面作戦陸海軍中央協定」では「ラバウル附近ヲ中核トスルビスマルク群島ボーゲンビル方面要域ノ防備ヲ強化シ極力永ク之ヲ保持スルニ勉ム」と規定された。驚くことに、両協定は現状の戦線(ソロモン、ラバウル)をそのまま維持することを前提に、戦闘を継続する方針を下達しているのだ。

一方、これら中央協定からマーシャル・ギルバートは除外された。さすがに海軍も絶対国防圏から東に大きくはみ出す中部太平洋からの後退は受け容れたのかと思いきや、そうではなかった。

古賀長官は絶対国防圏が制定されるよりも前の昭和18年8月15日付で、「大海指209号」(昭和18年3月25日付)を以て軍令部から示されていた「第三段作戦帝国海軍作戦方針」を受け、「連合艦隊第三段作戦命令」を発している。

大海指209号は、古賀の前任山本五十六連合艦隊司令長官宛てに軍令部が下達したものだが、なぜか半年近くも連合艦隊司令部はその扱いを保留にしていた。い号作戦の後始末や山本長官戦死に伴う混乱が原因とも推察されるが、公刊戦史も経緯を詳らかにしていない。如何なる理由にせよ、風雲急を告げる戦局の下、常識では考えられない遅疑怠慢である。

ところが絶対国防圏設定に向け軍部内の調整が動き出すや、古賀は俄(にわ)かに連合艦隊第三段作戦命令を発出した。その内容は、戦線を下げることを拒み、中部太平洋のマーシャル・ギルバート方面で米艦隊との洋上決戦(Z作戦)を隷下部隊に命じるものだった。準拠すべき軍令部の第三段作戦方針は、積極攻勢を止め、防備を固め長期持久態勢確立を目指すものだったが、古賀は「守りだけでは勝てぬ」と国防圏遙(はる)か前方での艦隊決戦に固執したのだ。

瀬島龍三少佐

陸海軍自身で無効化

この作戦命令は海軍だけで作成できる。しかし、先の陸海軍中央協定はそうはいかない。海軍軍令部が陸軍参謀本部と調整し、双方の合意が必要となる。ではなぜ新大綱と齟齬(そご)する中央協定が出来上がったのか。当初、軍令部は戦線後退の方針に同意していた。だが古賀の強硬な姿勢に煽(あお)られ、現戦線の死守を主張し始めるようになった。山本五十六以来の悪しき傾向だが、海軍中央が連合艦隊を抑えられず、それに引き摺(ず)られてしまったのだ。

戦線を縮小し、背後のマリアナ防衛に戦力を投入すべきだと考える陸軍は、当然の如(ごと)く海軍の方針転換に反駁(はんばく)した。ところが協議を重ねるうち、陸軍の担当幕僚瀬島龍三少佐らは次第に海軍に押され、結局その主張を容れてしまったのだ。それに伴い陸軍の部隊は防備を固めるべき後方の要域ではなく、マーシャル諸島やラバウル、ブーゲンビルなどの最前線に分散配置されることになった。政府軍一体の下で打ち出した絶対国防圏設定の国家戦略は、その決定と同時に陸海軍自身の手で事実上無効、無力化されたのである。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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