忘れ難い作家、作品というものがある。例えば、中島敦の「山月記」(昭和17年)。高校の教科書で読んだ。「教科書の作品はつまらない」との先入観があったが、強い印象を今でも残している。
短編小説だが、人間の本質に迫る作品だ。「理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」という言葉。虎になってしまった人間のセリフだ。
「えっ、人生ってそんな程度のものなのか?」ということにもなる。「そんなものが人生だったのか?」というのが当時の認識だった。
「受け身8割、自由2割」ぐらいが人生のように思える。中島が言うほど自由がないわけではないが、自由なぞほんの一部分なのが大方だろう。
33歳になって「山月記」の好評で文壇への足掛かりをつかんだ中島だったが、その後の活躍もないまま喘息(ぜんそく)で亡くなった。無念だっただろう。それでも、文壇で成功した芥川龍之介に比べれば、中島の方が遥(はる)かに深く強いものに迫っていたことは確かだ。
「山月記」が教科書に収録されたのは、一高・東大で親友だった官僚のおかげだ。戦後、彼の尽力で「山月記」が教科書に採用された経緯については、島内景二著『中島敦「山月記伝説」の真実』(文春新書)に詳しい。「山月記」が昭和文学の傑作となったのは作品の力であることは紛れもないが、友情が中島敦という文学史上の存在をもたらしたことも確かだ。