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沖縄県石垣市の尖閣諸島は、古くから八重山地域の漁師たちの漁場として栄えてきた。しかし近年、海底に眠る豊富な鉱物資源などの存在が明らかになったことから、中国は領有権の主張を強めると同時に、同国海警局の艦艇による領海侵入を常態化させている。
それでもなお、日本政府が「尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らか」と断言できる背景には、かつて私財を投入しこの列島の開拓に人生を注いだ古賀辰四郎の存在があったからだ。
1856年、筑後国(現在の福岡県)に生まれた辰四郎は23歳の時、家業の販路拡大のため沖縄を訪れる。沖縄で無価値と思われ廃棄されていた夜光貝の殻に目を付け、ボタンに加工し輸出することで一財を築いた。82年になると、事業で得た資金を元手に当時未開の孤島であった尖閣諸島の開拓に乗り出す。島々を探検した辰四郎は、開拓の許可を政府に申請した。
日清戦争が終わった95年、台湾が日本領となったことを契機に、政府は尖閣を沖縄県に編入することを閣議決定。辰四郎に尖閣諸島の30年間の無償貸与を認めた。
早速、辰四郎は魚釣島に鰹(かつお)節工場やアホウドリの羽毛加工場、肥料工場などを次々と建設していった。同時に多くの従業員も来島し、最盛期には魚釣島・南小島・久場島に合計で280人以上の人々が定住し「古賀村」と呼ばれるまでに発展した。
これらの功績から辰四郎は沖縄の人々から「産業の父」と呼ばれ、1909年には藍綬褒章を受章。18年に63歳で死去した。石垣島には彼を称(たた)える「古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑」が残されている。尖閣が明確に日本領である根拠を残した彼の後世への貢献は計り知れないものといえるだろう。
(K)