トップコラム赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(40)絶対国防圏の設定(上)海軍は戦線の縮小に抵抗

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(40)絶対国防圏の設定(上)海軍は戦線の縮小に抵抗

新指導大綱も生産力の裏付けなし

抜本的に方針見直し

昭和18年後半、米軍の攻勢を受け、南太平洋では戦線の後退が相次いだが、当時の日本の戦争指導の方針は「英ヲ屈服シ米ノ戦意ヲ喪失セシメル為引続キ既得ノ戦果ヲ拡充シテ長期不敗ノ政戦態勢ヲ整へツツ機ヲ見テ積極的ノ方策ヲ講ス」と定めた開戦直後の昭和17年3月7日に御前会議で決定された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」のままであった。

だがポートモレスビー攻略の失敗やミッドウェイの大敗、さらにガダルカナルからの撤退、アリューシャン喪失と敗北を重ね、今やソロモンからも追い落とされそうな形勢にある。

しかもその間、我の戦力は著しく損耗し、他方、米国が本格的反攻に出る時期も、またその規模も日本の予想を遙(はる)かに上回り、「英を屈服、米の戦意を喪失させる」ことなどもはや不可能だった。欧州方面でも独伊軍の北アフリカ撤退に続き、昭和18年9月にはイタリアが脱落、独ソ戦での独軍の頽勢(たいせい)も顕著で、三国同盟による共同戦線は有名無実と化していた。

古賀峯一連合艦隊司令長官

そのため政府軍部一体の下、先の「戦争指導大綱」を抜本的に見直し、早急に新たな戦争指導方針を確立する必要があった。そこで昭和18年9月30日の御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」と「同大綱ニ基ク当面ノ緊急措置ニ関スル件」が決定された。世にいう絶対国防圏の設定である。新たな「戦争指導大綱」では、以下の三つの方針が掲げられた。

一、帝国ハ今明年内ニ戦局ノ大勢ヲ決スルヲ目途トシ敵米英ニ対シ其ノ攻勢企画ヲ破砕シツツ速カニ必勝ノ戦略態勢ヲ確立スルト共ニ決勝戦力特ニ航空戦力ヲ急速増強シ主動的ニ対米英戦ヲ遂行ス

二、帝国ハ弥々独トノ提携ヲ密ニシ共同戦争ノ完遂ニ邁進スルト共ニ進ンテ対「ソ」関係ノ好転ヲ図ル

三、速ニ国内決戦態勢ヲ確立スルト共ニ大東亜ノ結束ヲ愈々強化ス

画餅にすぎぬ新大綱

この方針の下、具体的な対処要領として「万難ヲ排シ概ネ昭和19年中期ヲ目途トシ米英ノ進攻ニ対応スヘキ戦略態勢ヲ確立シツツ随時敵ノ反攻戦力ヲ捕促破砕ス」べきとし、「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域」を「千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマヲ含ム圏域」と定めた。

大井篤氏(終戦時海軍大佐)

つまり千島から小笠原、マリアナ・カロリン諸島と西部ニューギニア、ビルマを結ぶ線を絶対死守すべき国防圏とし、マーシャル諸島やソロモン・ラバウル方面、中東部ニューギニアは放棄することとされた。また「海上交通の確保」や「統帥と国務の連携緊密化」等の目標も挙げられた。「同大綱ニ基ク当面ノ緊急措置ニ関スル件」では、陸海軍の船舶25万総トンの増徴や航空戦力などの決戦戦力確保のための鉄鋼やアルミの生産目標などが示された。

ちなみに、「絶対国防圏」は高校日本史の教科書に太字で記載されているが、この語句は公文書には一切登場しない。戦争指導大綱の「絶対確保スヘキ要域」の記載から、誰言うとなくこの呼称が生まれ、流布したものだ。

しかし、航空機など決戦戦力の急速増強を唱えても、国内生産体制の現状はそれを可能とするには程遠い状況にあった。必要とする船舶の確保が望めず南方からの資源輸送は滞り、また徴兵による男性不足で労働力は払底していた。“巨大なボイラー”(チャーチルの表現)である米国と日本の生産力の差は埋め難く、格差は日を追うごとに広がっていった。消耗した戦力の急速回復は難しく、兵員物資を前線に送り届けることもままならず補給線の維持も困難。設定された国防圏でさえ、当時の日本の国力ではなお広範に過ぎた。

当時、海軍軍令部の戦争指導班長だった大井篤中佐も「誰の目にも明らかなように、作戦の鍵は航空戦力であると見られていた。いまラバウル、ソロモンの前線でさんざん敵に圧迫されて苦戦している重大原因も、こちらの航空戦力が足りないからであった。そしてマリアナ、カロリンの線に後退してみたところで、航空戦力が不足ではそこでも敵を食いとめる見込みがない。この新しい防御戦を“絶対国防圏”と名前だけ偉そうにつけてみたところで、絵に描いた虎の役にもたたない」と戦後回想している。

新大綱が言う「必勝の戦略態勢」は望み得ないが、勝てぬまでも阻止持久の態勢を築き後退を防ぐには、強力な指導と統制の下に政戦略を一元化すること、南方から本土へのシーレーンを確保すること、民需と軍需の整合性ある物資動員計画を立て、また陸海軍による資材船舶の争奪戦を抑える必要があった。そのうえで防衛圏をさらに絞り込み防御態勢を固め、局地局所での兵力の集中運用により数と質で勝る米軍に対処するしか術(すべ)は残されていなかった。

「後退思想」と猛反発

ところが戦場を絞り込むどころか、海軍、特に連合艦隊司令部は中央の決定を公然と無視し、当時の戦場をそのまま維持する動きに出た。絶対国防圏の設定は、戦略的後退已(や)む無しの判断から戦線を縮小し、国力再生に力を注ぐべきとの陸軍の考えがそのベースにあった。

しかし、古賀峯一連合艦隊司令長官は中澤佑軍令部作戦部長に対し「陸軍の後退思想は絶対に打破すべきで、南東方面から退(さ)がることは絶対に認めない」と強硬に戦線縮小に反対し、大本営の場でも「連合艦隊は全力を南東方面に注ぎ込む決心である。海軍ばかりが全兵力を挙げて戦い、他がこれについてこないのでは困る。全戦力を発揮するため陸軍も国家も、この作戦に全力を傾注することが肝要だ」と言い放ったのである。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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