【上昇気流】大分市の中にある「熊本」

鶴崎の中心部(Wikipediaより)

大分県の鶴崎という町を訪れた。大分市内の約1300人の小さな町だが、江戸時代は瀬戸内海を繋ぐ東九州の表玄関だった。近隣の諸大名は港湾の小島にそれぞれの船場を設け参勤交代をしたというから要衝の地だ。

鶴崎の特徴は当時、熊本(肥後)藩の「飛び地」だったことだ。初代加藤清正が肥後と天草を拝領する際、「天草の方は返上しますから、その代わり鶴崎を頂きたい」と達っての要望で熊本領となった経緯がある。

飛び地だから、そこには当然藩の出張所がある。いわば大使館に当たる。京や江戸に向かう海路だから、いざお家の大事となれば自らの都合でいろんな采配ができるというわけだ。さすが、清正の先見の明と言える。

こうした背景を持つ土地柄だろう、物資や人材の交流が盛んだったことがうかがわれる。地元が生んだ幕末の儒学者、毛利空桑(くうそう)もその一人である。

熊本藩医の子として生まれ、長じて尊王攘夷運動を推進した教育者でもある。私塾・知来館を開き、吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬も教えを請いに鶴崎を訪れている。「大御代はゆたかなりけり旅枕 一夜の夢を千代の鶴さき」(勝海舟)。

館長さんによれば、地元の年配の方には今も「ここは大分ではなく熊本藩だ」という気概と誇りが残っている。が、「灯台下暗し」ではないが、意外に地元の若い世代を中心にその偉人の存在を知らないことが多い。地元史の啓蒙も年少教育の課題だろう。

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