援軍・補給絶たれ「墓島」と化す
米VT信管投入、日本軍機に多大な損害

島中西部に米軍上陸
中部ソロモンのコロンバンガラ島を素通りした米軍は昭和18年8月15日、西方のベララベラ島に上陸し、日本軍を島の北西部に追い込んでいった。第17軍司令官百武晴吉中将は同島守備隊に訣別(けつべつ)含みの電報を送り救出断念を仄(ほの)めかしたが、コロンバンガラ撤収作戦の成功を受け、一転海軍は収容を決定し、10月6日撤収作戦が発動された。
収容部隊は同夜、集合地点の海岸から兵士を舟艇で沖まで運び、駆潜艇に移乗させ、翌7日朝、守備隊員589人がブーゲンビル島のブインに戻った。作業中、収容部隊掩護(えんご)の駆逐艦が待ち受ける米軍駆逐艦と交戦したが(第2次ベララベラ海戦)、作戦に支障は出なかった。ただ撤収が急であったため、兵を積み残したとの証言があり、昭和59年まで残存日本兵の捜索が続いた。

戦局の悪化に伴い、離島守備隊の撤収作戦はこれが最後になった。以後、太平洋各島嶼(とうしょ)の守備隊は孤立を強いられた。米軍に多大な出血を強要し最後は玉砕の途(みち)を選ぶか、あるいは補給が絶たれ敗戦まで飢餓地獄に苦しんだ。後者の典型がブーゲンビル島であった。
ガダルカナル撤収後、大本営は主防衛線を何処(どこ)に置くか検討したが、陸海軍の意見が対立。戦線を少しでも前に広げたい海軍は、ラバウルから極力遠方に設定すべきだと主張、これに対しガダルカナル島での補給途絶の戦いに懲りた陸軍は第一線をラバウル近傍に設定すべきだと主張した。最後は妥協が図られ、中部ソロモン(ニュージョージア島、イサベル島等)は海軍、後方の北部ソロモン(ショートランド島、ブーゲンビル島、ブカ島)は陸軍の担任と決まった。

これを受け、ガダルカナル島にあった第17軍司令部はブーゲンビル島に移り、第6師団や海軍の陸戦隊など約6万4千人の兵力で島の防備を固めた。ブーゲンビル島はソロモン諸島最大の島で、鳥取・島根両県を合わせた程の広さ。2千メートル級の山と深いジャングルに覆われており、4月に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死を遂げた場所でもある。
一方、中部ソロモンを手に入れた米軍はまたも蛙(かえる)跳び作戦で北進、チョイセル島を通り越え10月27日、ショートランド島西南方のモノ島に上陸、次いでブカ島に砲撃を加えた後、11月1日ブーゲンビル島中西部のタロキナに上陸した。日本側は驚いた。第17軍司令部は米軍の上陸予想地点を、日本軍のブイン飛行場を控えた南海岸エレベンタ地区や大型船が入港できる東海岸のキエタ地区と想定、それに合わせた兵力配備をしていたからだ。湿地帯が続くだけの中西部上陸は考えておらず、僅(わず)か200人強のタロキナ守備隊は忽(たちま)ち壊滅した。
沖合の海空戦で完敗
急遽(きゅうきょ)、西海岸南部を担当する第6師団隷下歩兵第23連隊をタロキナに向かわせたが、上陸した米軍第1海兵師団3万4千人を1200人程の兵力で追い落とすことは不可能だった(第1次タロキナ作戦)。別動部隊が海上から逆上陸作戦を試みたが、これも失敗に帰した。
米軍モノ島上陸の報に接した古賀峯一連合艦隊司令長官はろ号作戦を発動した。い号作戦の後、再建途次にあった第3艦隊の空母(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)、艦載機(第1航空戦隊)173機をラバウルに陸揚げし、基地航空部隊と共に米艦隊を叩(たた)く作戦だ。当初はニューギニア方面に侵攻する米軍を想定しての作戦だったが、ブーゲンビル進出の米軍攻撃に変更された。
また草鹿任一南東方面艦隊司令長官は米軍のタロキナ上陸を受け、重巡など10隻で襲撃部隊を編成、陸軍の逆上陸部隊930人を護衛してブーゲンビル島に向かわせた。しかし襲撃部隊は米軍上陸支援艦隊のレーダー照準射撃を受け軽巡など2隻を喪失し完敗(ブーゲンビル島沖海戦)し、部隊を島に送り込めなかった。古賀長官はトラック島の第2艦隊(栗田健男中将指揮)にラバウル進出を命じたが、ラバウル入港直後の5日朝、米艦載機の空襲で重巡5隻が中小破し、栗田はタロキナ泊地突入をあっさり断念しトラック島に引き返した。
一方、航空部隊はエセックス級空母などを伴うタロキナ沖の米機動部隊に5~12日にかけて断続的に攻撃を加えた(第1~3次ブーゲンビル島沖航空戦)。攻撃はろ号作戦終了後も第6次まで続けられたが(11月13、17日、12月3日)、戦果は駆逐艦1隻撃沈のみ。
我が方は搭乗員の練度未熟に加え、米軍が初めて投入したVT信管(弾頭に小型レーダーを付け、直撃せずとも目標が近づけば自動的に炸裂(さくれつ)する)によって第1航空戦隊の航空機70%(173機中121機喪失)、搭乗員47%(192組中89組戦死)を喪失、事後の作戦に著しい支障を来すことになった。ところが搭乗員の報告を基に大本営は空母9隻撃沈破等の誇大戦果を発表した。悲惨な現地の実情を知らぬ日本国内は、久方の戦勝気分に溢(あふ)れた。
飢えと病に倒れる兵
橋頭堡(きょうとうほ)を築いた米軍は日本軍を追撃することなく、飛行場建設を急いだ。米軍の狙いは島の占領ではなく、飛行場を築きラバウルの日本軍基地を叩くことにあった。翌19年3月、第17軍は第6師団など2万の兵力でタロキナ米軍基地への攻撃を再開したが、圧倒的な米軍火力の前に1万2千余の死傷者を出し攻撃は中止に追い込まれた(第2次タロキナ作戦)。
先を急ぐ米軍は11月に島を去り、交代した豪州軍は日本軍を島から追い落とす作戦に出た。補給を断たれた日本軍に反攻する力は無く、ジャングルに潜み持久するしか術(すべ)がなかった。飢餓に苦しみ、倒れた兵士は忽ち白骨と化した。「軍紀も勅諭も戦陣訓も百万遍の精神訓話も飢えの前には全然無価値であった」(神田正種第6師団長の回想)。
ガダルカナル(餓島)の再来と化したこの島は何時(いつ)しか「墓島」と呼ばれた。6万超の将兵は援軍も補給も絶たれ、終戦までに3万3549人が戦いと飢えと病に倒れた。同じ悲劇はニューギニアでも繰り返される。
(毎月1回掲載)
戦略史家 東山恭三