夏休みが終わった。いや、新学期が始まったと言うべきか。自治体によってばらつきがあるが、気流子の住む地方では通学カバンを背負った高校生たちが電車に戻ってきた。
それまで静寂だった車内が、途端に賑(にぎ)やかになった。彼ら、彼女らは空席があっても座らず、大人たちに譲る。その代わりではあるまいが、しゃべる、しゃべる。騒がしいが、爽やかな朝の風景の復活である。
終戦から20年ほど経た頃、文相(当時)の諮問機関である中央教育審議会が「期待される人間像」を取りまとめたことがある。「敗戦による精神的空白と精神的混乱」の克服を目指すもので、「徳のある人づくり」を標榜(ひょうぼう)した。その中にこんな一節がある。
「日本人としての自覚をもった国民であること、職業の尊さを知り、勤労の徳を身につけた社会人であること、強い意志をもった自主独立の個人であること」。明治の初めに福沢諭吉が説いた「一身独立して一国独立する」(『学問のすすめ』)を思わせる気概が垣間見える。
ところが、日教組が教育勅語や修身の焼き直しだと猛反対し、実践は封印された。彼らの「期待される人間像」は「青少年を社会主義的社会の実現のための担い手として教育する」(日教組「倫理綱領」)、革命戦士だったからだ。
それから半世紀。さすがに革命戦士は見当たらない。「徳のある人」も怪しい。「期待される人間像」はどこに行ったのか。通勤電車の喧騒の中で、しばし頭を巡らせた。