トップコラム京都国際「韓国語校歌」是か非か 否応なしに訪れる国際化

京都国際「韓国語校歌」是か非か 否応なしに訪れる国際化

初優勝を果たし、校歌を斉唱する京都国際の選手たち(2024年8月23日、甲子園 /時事)
初優勝を果たし、校歌を斉唱する京都国際の選手たち(2024年8月23日、甲子園 /時事)

全国高等学校野球選手権大会(甲子園大会)は京都代表の京都国際中学高等学校が初優勝した。優勝校の校歌が流れ、今大会で話題となっていた韓国語の歌が甲子園の空に高らかに響いた。同高が朝鮮学校に由来し、韓国でも認可された学校ということで、勝ち進むにしたがって韓国でもその「活躍」が注目されていたが、優勝したとあって尹錫悦大統領も「奇跡だ」と祝辞を送ったと報じられている。

ところが、この韓国語校歌をめぐってネットでは大炎上。ついに西脇隆俊京都府知事が悪質な「差別投稿」3件の削除を京都地方法務局とサイト運営者に要請する事態となった。

これに対してX(旧ツイッター)では「日本人として恥ずかしい」「優勝した子たちに罪はない」と知事を支持する意見もある一方で、「中傷されてもしようがないと思う。露骨な侵略メッセージを持つ高校が存在している事自体がおかしい」と韓国語校歌を非難する意見もあり、論争となっている。

では歌詞のどこが「侵略メッセージ」なのかを見てみる。

まず原語と直訳とNHK画面で流された「日本語訳は学校から提出されたものです」を併記する。

동해 바다 건너서 야마도 땅은
東海の海を越え 大和の地は
東の海を渡りし 大和の地は
거룩한 우리 조상 옛적 꿈자리
聖なる我らの先祖の昔の夢の座
偉大な祖先 古の夢の場所
아침 저녁 몸과 덕 닦는
朝な夕なに 体と徳を磨く
朝な夕なに 体と徳を磨く
우리의 정다운 보금자리 한국의 학원
われらの情に満ちた住処 韓国の学園
われらのふるさと 韓日の学び舎

ここでまず問題となるのは「東海」だ。それをわざわざ「東の海」としているが、この2つは含む意味が全く違う。東海は韓国が日本海の呼称として主張する単語である。「東の海」と言い換えたのは反発や問題視されることを回避したものと思われる。いわば学校側の“配慮”なのだろう。だが、ほとんどが日本人の生徒である同校で「東海」を刷り込んでいくのは教育的にはどうなのだろうかという疑問は残る。

海を渡って着いた「大和の地」が「我ら先祖の夢の場所」だというのはどういうことだろうか。現在の在日韓国朝鮮人はその出自の多くが日韓併合時代の「移住」や「留学」「出稼ぎ」だが、中には戦後の「密航」も多く、今では一般的にそうと信じられている「強制連行」で来た人はほとんどいない。炭鉱や金山、軍需工場へ働きに来た人々も本意か不本意かは別にして「契約」で来た労働者であり、給料も支払われ、故郷に送金もしていた。「命からがら逃げ出した」ことが“愛国者の抵抗”のように語られるが、単なる契約違反、職場放棄、脱走に過ぎない。

だとすると日本が「夢の地」とするのはこの時代のことを言っているのではないだろう。もっと昔、4世紀から7世紀にかけて来た「渡来人」たちを指すものだと解釈すれば、辻褄は合いそうだ。渡来人は政争で国を追われたり、新天地を求めて海を越えてきた。その際、多くの文物を伝え、政権の中枢で要職を占める者も出たと言われている。勘ぐってみれば、この時代を懐かしむというのは、再び、日本の中枢で活躍することを夢見ることを暗示してはいないか。それを「侵略メッセージ」と読んだのだろうが、その解釈には無理があるだろう。

最後の「韓国の学園」が「韓日の学び舎」と変えられているのは明らかに原意とは違うのだが、実態はまさに「韓日」である。「2021年3月時点で全校131人のうち日本人が93人、在日韓国人が37人」(臼北信行、JBpress、21.3.25)であり、しかも「日本人生徒のうち40人が野球部員」だったという。

しかし原語では「韓国の学園」だ。これは民族学校から始まった点を考えれば、説明はつく。当初は在日韓国人の子弟がほとんどを占めていたのだろうから「韓国の学園」としてもおかしくはない。しかし生徒数の減少、経営難から日本人生徒を受け入れ始め、野球部に特化して知名度を上げて経営に資するようにした。その結果、校歌の内容が設立当初と現状とでは違ってきたということだ。

さて、今では甲子園に限らず、高校スポーツ大会やコンクールには「一条校」が参加している。中華学校やアメリカンスクール、インターナショナルスクールの参加も珍しくない。「国際化、多様性」とその一方の「人口減少」を考えると、日本人ばかりでは大会が成り立たなくなる時が来ることも予想される。今後、否応なしに各種の大会で日本の学校ばかりではない状況が生じて来るだろう。

京都国際高は「一条校」として甲子園に出場した。問題は勝利校の校歌が毎回歌われることだ。他の大会では校歌を歌うことは、ほとんどない。甲子園の特殊事情といえる。だから問題にされたのだが、将来的には中華系、欧米系、インド系、イスラム系等々の学校が各種行事に参加してくるようになれば、当然、外国語の校歌を持つ学校が増えて来るし、それが普通になってくるだろう。そういった状況を日本人が受け入れる準備と覚悟ができているかどうかだ。問われるのは日本人側になっている。

何はさておき、「頑張った選手には拍手を」「戦い抜いて優勝を勝ち取った選手たちは労ってあげよう」という声が多数であることは日本社会の健全さを再確認させてくれる。
(岩崎 哲)

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