人はなぜ山に登るのか

白馬岳

毎年、7月下旬から8月上旬、高齢者でも登れそうな高山を選んで小屋泊の登山に行く。

今年は20代の時に登った長野県白馬岳(2932㍍)の大雪渓をもう一度歩いてみようと、6月ごろから計画を立てていた。

ところが7月に入り、大雪渓上にクレバスが多発、通行禁止となった。やむなく別の栂池ルートで登ることにした。アルプス入門者や山初心者向けの緩やかなルートなので、道もよく整備されている。

登山口の栂池自然園から、重装備の健脚登山者らが次々登ってくる姿を横目にゆっくり歩を進めた。

30分ほど登ると休憩スポットで腰が曲がった小柄な女性が休んでいた。しっかりとした登山装備だが、どう見ても80歳近い。去年、唐松岳で80歳代の老夫婦と出会ったが、この年で単独登山は珍しい。

通常の倍の時間をかければ登れないことはないが、大丈夫だろうか。そんな心配をしながら、急登を3時間半ほど登ると山荘のある白馬大池に着いた。初心者コースとはいえ、かなりの体力を消耗していた。

小一時間ほど休んで、山荘に入ろうとしたら、到着する登山者の群れにあの高齢女性の姿があった。歩き方はしっかりしている。今夜は山荘に泊まるのだろう。そう思っていたら、小休憩の後、白馬岳に向かって登り始めた。それは山を楽しむというより、気力、体力の限界を超えていく闘いである。

人はなぜ山に登るのか。イギリスの登山家、ジョージ・マロリーは「そこに山にあるからだ」(実話ではエベレスト)と答えたという通説がある。

一方、日本の登山は山岳信仰から始まった。山々に神を見いだし、登山は精神修行の意味合いが強かった。時々、山で出会う老登山者の姿は山伏の修行僧に似ている。

今年の夏は例年以上に山の遭難事故が多い。老女性の後ろ姿に登山の無事を祈った。

(光)

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