【上昇気流】子供心に思う「戦争」

太平洋戦争(Wikipediaより)

終戦の日から今年で79年となる。先の戦争を体験した世代ではないが、子供心に戦争の一端を垣間見たと思える記憶が鮮やかに残っている。それは小学生の頃、父の実家で見つけた戦争の画集だった。

両眼を負傷し包帯した兵士が、両足を負傷した兵士を背負って行軍していく姿だった。一人は見えず、もう一人は歩けないという過酷な状況の中で互いを補って何とか目的を果たそうという、生への執念というものを感じたのだ。

また、これとは違う画集だが、大編隊の敵機によって撃沈された艦艇から放り出された乗員たちを、僚艦が必死になって救助する場面だ。戦艦だから舷側は高い。手足を負傷しているため、口で投げ出された綱を咥(くわ)えて必死に上っていこうとする乗員もいる。

今から考えるに、戦闘が続く状況でいくら戦友を救助するとはいっても巨艦を停止させるのは自殺行為だ。それだけ敵の格好の標的となりかねない。しかし、そこにも戦闘の常識を超えた絆が働いていたのだろう。

戦争の当事者は特に指揮を執ったクラスの人たちの、例外はあるが戦争を語る口は重い。「敗軍の将、兵を語らず」というのだろうか。だが、真実は一つではない。

戦争を美化するつもりはない。戦争論の是非は置き、非日常、極限の環境下で人はどう行動し生きていこうとするのか。1枚の画(え)が教えるように、先の戦争を顧みる時に、さまざまな角度からの考察が必要ではないだろうか。

spot_img
Google Translate »