恒例の芥川・直木賞の発表が先月あった。テレビでその様子を見たが、直木賞受賞の女性作家がマスク姿で登場した。
「新型コロナウイルスの感染拡大が終わったわけではないのだから、マスクは納得」とその時は思った。後で新聞を読むと、マスク姿は新型コロナとは関係がなく「覆面作家」として活動したいという希望から選択したことが分かった。
この直木賞受賞作家は「作品が全て」なのだから作者の姿を公開する必要はないとの意向のようだ。だがまた「作品は作者が生み出す」と考える立場からすれば、直木賞であれノーベル賞であれ、あらゆる賞は常に人に与えられるものだ。
賞金は作者に与えられる。税金も作者が払うことになるだろう。「作品が全て」というのは、実態を反映しない空論のようにも見える。こうした考え方は20年ぐらい前に議論されたもので、それ自体が古いとの見方もある。
確かに、1885(明治18)年ぐらいから始まった日本の近代文学は、作家重視の傾向が強かった。「作家が全て」で「作品は作家ほど重要視される必要はない」といった風潮は、私小説を中心とする「文壇」意識と重なり合って近代文学史を形成してきた。
が、それにしても「もっともも、過ぎればウソ」という言い方があるように、「作品が全て」と言い切ってそれで終わりというのは行き過ぎだ。「作品を生み出すのは作家」という原点は、たやすく否定することはできないだろう。