舟艇部隊が1万2千人を救出
護衛なし乏しい火器で強襲作戦
蛙跳び作戦行った米
ガダルカナル島からの撤収後、日本軍は前線を中部ソロモン諸島に下げたが、昭和18年6月30日、戦力を整えた米軍はカートホイール作戦を発動し、中部ソロモン諸島の小島レンドバに上陸した。本格的攻勢の開始である。7月3日には日本海軍航空基地のある対岸ニュージョージア島のムンダにも兵を進め、中部ソロモンからの日本軍追い落としを図った。
ムンダ奪還を期す日本軍は、隣接するコロンバンガラ島所在部隊の一部をムンダ増援に差し向けたが、彼我戦力の差は如何(いかん)ともし難く、8月3日ムンダは敵の手中に落ち、戦場はコロンバンガラに移ると予想された。だが米軍は蛙(かえる)跳び作戦でコロンバンガラを素通りし、その西の日本軍が手薄なベララベラ島に上陸(8月15日)。6千人の米軍を前に600人の同島守備隊は忽(たちま)ち制圧された。これ以後、米軍は蛙跳び作戦を頻繁に用いるようになる。
退路を絶たれ孤立した1万2千余のコロンバンガラ島守備隊(陸軍南東支隊、海軍第8連合特別陸戦隊)は米軍の激しい砲撃や航空攻撃に晒(さら)された。坐死(ざし)するよりは糧食弾薬が払底する前に米軍に攻勢を掛け、潔く玉砕することに守備隊一同決心した。9月12日、隣接するアルンデル島の米軍に向け先鋒部隊を送り込むが、その直後の15日、外南洋部隊指揮官は参謀を現地に派遣、セ号作戦と呼ばれたコロンバンガラ撤収作戦が伝達されたのである。
ラバウルの上級司令部では、コロンバンガラ島孤立の直後から守備隊収容の方途について検討が行われ、8月末撤収作戦の大綱が示された。撤収は大発と呼ばれる舟艇約140隻(陸軍100隻、海軍40隻)で夜間守備隊員をコロンバンガラ島から北方のチョイセル島に運び、その後ブーゲンビル島に後送するものとし、全体の指揮は第8艦隊司令長官鮫島具重中将、撤収部隊の指揮は陸海軍の舟艇隊を統一し陸軍第2船舶団長芳村正義少将が取った。
武器は機銃と擲弾筒
なぜ大発しか投入しないのか。8月6日、コロンバンガラ島とベララベラ島の間のギゾ海峡で、増援の陸兵を乗せコロンバンガラに向かう途中の駆逐艦4隻中3隻が米軍魚雷艇に瞬時に沈められ衝撃が走った(ベラ湾夜戦)。もはやこの海域で駆逐艦を用いた作戦は不可能との判断から、収容は武装大発のみの作戦となったのだ。ただ舟艇部隊の懇願で、米軍機の脅威不在の時は大発が運び出した守備隊員の後送だけは駆逐艦4隻が支援することになった。
武装とはいえ、大発には機銃数丁と擲弾筒(てきだんとう)の装備しかなく、足も遅い。周辺海域を米軍が完全に押さえ、魚雷艇や駆逐艦が待ち構える中を、護衛の駆逐艦や航空機を一切伴わず大発だけで1万2千人の兵士を運び出せとの命令は、火力で我を圧倒する米軍との交戦を強いるものであり、ガダルカナルやキスカよりも遥(はる)かに過酷な強襲収容作戦であった。
余談だが、8月2日深夜、コロンバンガラへの増員輸送の帰途、駆逐艦天霧が同島南のブラケット海峡で米軍魚雷艇109を至近距離で発見、その艦体を切断した。109の艇長は海に投げ出された部下を率い6キロ離れた無人島に泳ぎ着き、6日後に救助された。この魚雷艇長が後に米大統領となるジョン・F・ケネディ中尉で、島はケネディ島と名付けられた。
9月20日、第1次撤収作戦開始。同日ブーゲンビル島のブインを出た舟艇部隊は一旦(いったん)コロンバンガラ島北方60キロのチョイセル島スンビの基地まで進出、待機した後、27日夕、コロンバンガラに向け出撃した。午後10時ごろ、警戒中の米軍に発見され、駆逐艦の艦砲射撃と魚雷艇による激しい機銃掃射を浴びた。沈められた舟艇も出たが、多くは米軍の猛攻撃を潜り抜け翌未明、コロンバンガラ島北の北天岬など事前に打ち合わせていた会合地点に到達した。守備隊は大量の樹木で舟艇を偽装し、夜を待った。
28日夜半、守備隊員を乗せた舟艇はチョイセルに向かう。島を離れた直後、再び魚雷艇が舟艇の左右と後方から猛烈な射撃を加えてきたが、各舟艇は勇敢に応射。その後、海軍舟艇に乗る守備隊員約2700人は駆逐艦4隻に移乗、陸軍舟艇部隊は2500人の兵士をチョイセル島に運び届けた。故障等で島に残留していた舟艇による撤収作業は30日まで続いた。
我が身挺し作戦成功
間髪を空けず、10月1日~3日にかけて第2次撤収作戦が実施された。舟艇の数が少なく、1度の作戦では守備隊員全員の収容ができなかったのである。第1次と同様の手順で作戦が進められ、米軍の攻撃を受けながらも、島に残存する守備隊員約6千人を撤収させた。
舟艇部隊は延べ7日間にわたり、敵と戦いながらチョイセルとコロンバンガラの危険な海域を往復し、守備隊員1万2千余の撤収に成功した。守備隊の戦死者は約200人で全体の2%以下にとどまったが、舟艇部隊の戦死者は170人と参加人員の15%に上り、舟艇の約半数が沈められた。だが守備隊員を乗せた舟艇で沈められたのは1隻のみ。単なる偶然、僥倖(ぎょうこう)とは思えない。
今日、語られることの少ないコロンバンガラ撤収作戦だが、危険を顧みず、我が身を挺して作戦を成功させた舟艇部隊の功績はキスカ、ガダルカナルの両撤収作戦に勝るとも劣るものではない。地味な職域でありながら、怯(ひる)むことなく乏しい火器で米軍に勇敢に立ち向かい、見事撤収任務を達成した彼らの勲(いさお)は広く世に知られ、末永く称(たた)えられるべきである。
その勇士のお一人で、第2艇隊長として2度の撤収作業に当たった竹中義男陸軍大尉に戦後お目にかかったことがある。当時、陸上自衛隊富士学校長の要職に就いておられた。氏は“髭(ひげ)の陸将”で有名だった。その髭の立派さは、キスカ撤収を指揮した木村昌福中将を彷彿(ほうふつ)とさせるものがあった。
(毎月1回掲載)
戦略史家東山恭三