
「新聞小説はこういう風に書くものかと目が覚める思いがした」。歴史家の会田雄次の、吉川英治作『宮本武蔵』が朝日新聞に連載されたときの感想だ。『歴史小説の読み方』(PHP研究所)の中で論じている。
この小説は昭和10年8月から始まり、12年5月に中断。13年1月から14年7月まで続いた。平和な民主主義が軍国主義に取って代わった時代だった。小説が再開された時、日華事変が勃発、南京占領と、日本は長期戦の泥沼に入っていく。
戦いは国民を興奮させ、これに共鳴するように、武蔵の物語は三十三間堂で吉岡伝七郎を斬り、一乗寺下り松の決闘で吉岡一統を一掃し、大詰めの船島での佐々木小次郎との決闘に至る。
「そこに到達するまでの過程のうねりと日本軍漢口進撃、海南島占領という回路は見事に歩調が合っている」と会田は解説する。日華事変は終わらず、同様に武蔵の方も船島から姿を消す。それは驚くべき「技術」であったという。
日本人全体の感情の流れと小説は連動した。「こういう素質こそ大衆作家として成功する不可欠の条件」と語り、同じ条件を備えた作家として司馬遼太郎を挙げる。
会田は戦後ラジオで徳川夢声がこの作品を朗読して反響を呼んだ時、名人芸に感嘆したが、もう興奮はしなかった。作品は戦後も歓迎されたが、その質と量は当時と比較にならないと述べる。歴史家の見方は面白い。
(岳)