俳優の丹波哲郎が亡くなったのは18年前の2006年。先ごろ、評伝(野村進著『丹波哲郎 見事な生涯』講談社)が刊行された。名家の生まれだった丹波(1922年生)も学徒動員へ。吃音(きつおん)がひどく、軍隊生活では苦労した。東京・立川の師団では、上官の川上哲治(後のプロ野球巨人監督)から激しい暴力を受けた。川上は典型的な「下士官気質」。吃音の丹波は標的にされやすい。丹波は川上のことを生涯忘れなかった。
敗戦後、時代のストレスが消えたためか、吃音もやがて治った。俳優の道に進んだ理由は分からない。ただ、丹波には「光」があったとの証言がある。
映画界では「態度がデカい」と言われた。が、一種の「徳」があるのか、「主演を食おう」などとは思わない。大スターになっても、引き立て役を平気で務めた。
「留(とど)めのスター」とも言われた。出演者の名前が映し出され、最後に丹波の名前が出ると画面が引き締まる。370本の映画に出たと言われるが、本人は周囲に52歳の時の「砂の器」(74年)が代表作と言っていた。
そんな丹波の鶴田浩二(87年没)とのやりとりが面白い。鶴田は丹波より2歳年少だが、映画界では先輩だ。ある日、鶴田が「丹波」と呼び捨てにした。すると丹波も「鶴田」と返した。
鶴田は穏やかではない。「一歩引いたら、永遠に鶴田の風下にいるはめになる」と丹波が勝負に出たと証言する人もいる。丹波という名優の面白さを描き出した一冊だ。