赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (37)ガダルカナル撤収作戦(下)

秘密保持し交戦中の1万余救出

語り継ぐべき殿・矢野大隊の奮戦

財団法人南太平洋戦没者慰霊協会がアウステン山麓に建立したガダルカナル島戦没者慰霊碑

高速の駆逐艦を投入

ガダルカナル撤収作戦を担当した小沼治夫元第17軍参謀は戦後、「あと3日撤収が遅れていたら、日本軍は全滅していただろう」と述懐している。まさに間一髪、薄氷を踏む撤収作戦だった。米軍が島に揚がる前のキスカと違い、ガダルカナルでは半年前に上陸した米軍との地上戦闘が続き、劣勢な日本軍は島の西へ西へと追い込まれていた。厳しい戦局の中、しかも敵と対峙(たいじ)し交戦中の1万余の兵を救い出せた理由の一つは、作戦の秘密が保たれたことにある。

各部隊の兵士には、島の西端エスペランス岬に集合せよとの命令が出たが、「1月下旬を期して舟艇でルンガ沖に進出、逆上陸して米軍に奪われた飛行場奪還のため第3次総攻撃をかける」と説明され、撤退作戦であることは駆逐艦に乗る直前まで秘匿された。携帯を許された装備の軽さや上官らの気配で薄々真の狙いに感づいていた兵も一部いたが、敗走、撤退時にみられる退嬰(たいえい)的行動や混乱、士気の喪失は少なかった。ただ、自力で移動できぬ傷病兵には自決が強いられ、銃声や手榴弾(しゅりゅうだん)炸裂(さくれつ)の音が戦場各地で聞かれた。

ガダルカナル島に残る日米兵士の遺品

一方、米軍は日本の艦隊の動きを増援のための行動と信じて疑わず、総攻撃の近いことを警戒し、部隊の前進も慎重になっていた。身を挺(てい)した激しい攻撃ぶりを目の当たりにしてきたため、よもや日本軍が大部隊ごとそっくり島から撤退するとは想像できなかったのだ。

秘匿に加え、日本軍は航空機での活発な哨戒行動や豪州への夜間爆撃、潜水艦でのフェニックス諸島砲撃、さらにラバウルから多数の偽電を打つなど米軍を牽制(けんせい)、欺瞞(ぎまん)した。

また迅速な収容が実現したのは、高速の駆逐艦を多数投入し得たことが大きかった。これ以上の駆逐艦損耗は事後の作戦に支障を与えると連合艦隊は不満だったが、山本五十六長官が投入を決断した。駆逐艦輸送が困難になった場合に備え、予(あらかじ)めガ島の西に位置するラッセル諸島のバイシー島に船舶工兵部隊を送り込み、大発での撤収も準備していた。だが速度が遅く運べる人数も少ない舟艇での移動では長時間を要し、恐らく途中で作戦は中止、多くの兵は島に取り残されたであろう。

撤収の際、駆逐艦は幾度か米軍の水雷艇や戦闘機と交戦したが、被害は軽微に留(とど)まりガ島将兵の輸送を成し遂げた。艦長以下駆逐艦乗組員が不眠不休でショートランドとガダルカナルの危険な海域を3度にわたり輸送に当たった功労も見落とせない。

実戦経験の無い弱兵

井本熊男参謀が駆逐艦4隻を以(もっ)て撤収命令伝達のため島に出向いた際、矢野桂二少佐を長とする第38師団の補充大隊約750人が同行していた。表向きは第3次総攻撃のための増援第1弾として送り出されたが、真の使命は米軍に攻勢をかけ、撤収が悟られないよう努めるとともに、ガダルカナル将兵の撤収を終えるまで最前線を持ち応え、時間を稼ぐことにあった。

いわゆる殿(しんがり)である。その活躍如何(いかん)で撤収の成否が決まる最も重要な役割だが、生還期し難い最も危険な任務でもある。大隊長矢野佳二少佐は中国戦線、南寧の作戦に参加した時、最後衛部隊を指揮した経験の持ち主である。

では精鋭の強者が矢野殿部隊に選抜されたかといえば、実態は実戦経験の無い弱兵の集団。全員の討ち死にを想定しての捨て駒部隊だった。ラバウルの第38師団(本体はガ島で苦戦中)残留部隊から抽出された現地の臨時編成で、多くは第230連隊の補充要員として臨時招集され12月に内地からラバウルに送り込まれたばかりの30歳前後の未教育補充兵で、実弾射撃の経験さえ無かった。小銃と機関銃、それに山砲の各中隊で構成され、別に通信担当の兵約150人も送り込まれた。大隊の真の目的は、矢野少佐にも伝えられなかった。

この矢野大隊が、期待された以上に善戦した。彼らは最前線で果敢に米軍に反撃、正面および右翼方向から圧迫してくる米軍と戦闘を交えながら後退し、その侵攻を抑えている間に1次、2次の撤収が予定通り行われた。矢野大隊の頑強な抵抗ぶりは米軍戦史にも記録されている。彼らの奮戦で、米軍は日本兵の西進や撤収の動きに気付かなかったのである。

だが矢野大隊にはガ島将兵が撤収している事実さえ知らされなかった。それどころか撤収全般の指揮官松田教寛大佐は、最後の第3次撤収が始まっても、戦線を支えている矢野大隊の一部をそのまま島に残置させ見捨てる方針でいた。矢野大隊長は、部下を残すくらいなら大隊一丸となり玉砕する腹を固め、決然と最前線に舞い戻った。これには松田大佐も折れ、「その精兵なるに鑑み、残置するに忍びず」と方針を撤回、矢野大隊は帯剣一つを身に着け最後の駆逐艦に収容された。25日間の在島で、750人の兵員は300人にまで減っていた。

真の目的を知らず、戦局挽回の先兵たれと激励されたことで旺盛な士気が保たれ、奮戦敢闘、見事、殿の任務を達成したとも言えるが、戦争とは非情なものだ。理不尽な扱いを受けながら、捨て駒とされた老兵らの尊い犠牲によって奇跡の撤収は成功し、1万余の将兵の命が救われたのである。この史実は後世に語り継がれねばならない。

二つの作戦に共通点

敗北を重ねる日本軍にあって、キスカとガダルカナルからの撤収はなぜ成功したのか。二つの作戦には共通点が認められる。①撤収という消極行動で、作戦目的が限定的かつ明確であったこと②機密が保たれたこと③米軍が日本軍の撤収行動を予知できなかったこと④陸海軍の協力、さらに⑤軍中央の関与が少なく、救出部隊と現地部隊が連携を密にし、迅速かつ臨機応変の作戦指導を行ったこと。現場の実情も米軍の破壊力の凄(すさ)まじさも知らぬ中央の幕僚が、あれもこれもと複数の作戦目的を羅列し、教範そのままに攻撃一本槍(やり)の作戦を押し付ける日本軍の悪(あ)しき体質が、幸いにも撤収作戦では露呈しなかったということだ。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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