トップコラム【上昇気流】福沢諭吉と渋沢栄一

【上昇気流】福沢諭吉と渋沢栄一

報道陣に公開された新紙幣のサンプルと現行紙幣の肖像画の比較=6月19日午後、東京都北区

あす新紙幣が発行され、1万円札の顔は福沢諭吉から渋沢栄一に変わる。40年ぶりの交代だ。福沢から渋沢への交代は日本経済の発展の流れにも符合する。

福沢は海外の経済・社会制度をいち早く日本に紹介した。そして渋沢は「日本資本主義の父」と言われるように、第一国立銀行の創設など実際に制度を整えた。

同時代人の福沢と渋沢は、それほど深くはないが、実際に交流があった。官に対する民の立場をモットーとする福沢は明治26年に時事新報で、大蔵省の役人を辞め実業家となった渋沢を称(たた)えた。政府の役人になることだけが出世の道だと思い込んでいる人が多いが、実業の道に進んで最高の地位にある渋沢の生き方こそ模範にすべきだと。

2人には重要な共通項がある。共に幕臣として活動する時代があり、海外渡航を経験していることだ。

福沢は幕府の遣米使節の一員として咸臨丸(かんりんまる)で米国に渡っている。名主身分から武士に取り立てられ、最後の将軍、徳川慶喜に仕えた渋沢は、パリ万博に出席する徳川昭武の随員として渡仏し、欧州を視察している。2人が教育・思想面と実業面でそれぞれ先駆者となり得たのは、やはり若い日の海外体験が大きかったと思われる。

しかし2人とも、単純な欧化主義者ではなかった。『論語と算盤』の著書があるように渋沢には東洋的な倫理観があった。儒教嫌いの福沢にも勝海舟を批判した『瘠我慢(やせがまん)の説』に見るような古風な士道が根底にあった。

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