蒸し暑さに閉口しながら歩いていると、熱中症になりそうな気がして木陰が欲しくなる。だが、街路樹はあっても影は細い。道路を邪魔しないように剪定(せんてい)されているためだ。
大きな木を見掛けるのは公園や神社ぐらいかもしれない。神社はそこだけ樹齢100年を超えた大樹が頭上を覆うように立っている。ご神木として大切にしてきたせいだろう。見上げると、過去に生きていた人々の声が聞こえてくるような気がする。
初夏になって緑があふれ旅心を誘われる。萩原朔太郎(さくたろう)の詩「旅上」ではないが、背広を着て「きままなる旅にいでてみん」と思うのが自然だろう。だが、移動できる人間や動物に対して木は動けないので、旅に出掛けられない。じっと頭上に枝を伸ばしていくしかない。
移動しない代わりに寿命が長くなったのが木。そう思っていると、茨木のり子さんに「木は旅が好き」という詩があるのを知った。「木は/いつも/憶っている/旅立つ日のことを/ひとつところに根をおろし/身動きならず立ちながら」と始まる詩は、実を食べた小鳥のお腹(なか)を借りて種子が旅すると続く。
なるほど種子を通して木も旅する。そうなのだが、木の心は種子に移っているのだろうか。そんなことを思っていると、木の葉が降ってきた。夏の季節も落ち葉がある。
常緑樹の冬を越した古い葉が新葉と入れ替わるためだ。季語に「樫落葉」「松落葉」「杉落葉」などがある。旅心を誘う夏の落ち葉も悪くはない。