【東風西風】渤海人が命名した「光る君」

紫式部像

NHK大河ドラマ『光る君へ』は、越前国守となった父藤原為時(ためとき)に従い、まひろ(紫式部)も越前へ下り、そこでの宋人との交流が描かれ、にわかに国際的な色彩を帯びてきた。実際、為時は宋人と漢詩の贈答を行い、漢詩集『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に為時が宋人に贈った漢詩が載っている。

東アジアとの関わりでいえば、そもそも『源氏物語』の主人公を「光る源氏」という通称の元となる「光る君」という言葉は、「高麗人」の人相見が発した言葉である。第一帖「桐壺」で、帝の子であることを隠して幼い源氏を高麗人の人相見に見せたところ、人相見は源氏の貴く優れた相に感嘆し、その将来を予言する。巻末には、「光る君といふ名は、高麗人のめできこえてつけたてまつりけるとぞ言ひ伝へたるとなむ」と記している。

ここに出て来る「高麗人」については、河添房江氏が『源氏物語と東アジア世界』(NHKブックス)の中で、日本と正式の国交のなかった高麗ではなく、何度も使節を送って交流のあった渤海(ぼっかい)人を想定したもの、との見方を示している。高句麗の遺民によって建てられた渤海は、「高麗」を名乗っていた。

「いづれの御時にか」で始まる源氏物語は、紫式部の生きた一条朝より百年ほど前の仁明(にんみょう)、宇多、醍醐(だいご)の帝の頃を念頭に置かれていることからも、渤海国がふさわしいと言う。国風文化の粋とされる『源氏物語』だが、誕生の背景には東アジア的な広がりを持つ文化空間があった。

(晋)

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