名誉を飾らず大局に立つ
万難排し大命遂行した百武中将

御前会議で撤収決定
第1水雷戦隊によるキスカ島守備隊の収容は、巷間(こうかん)「奇跡の撤収」と呼ばれているが、キスカよりも遥(はる)かに厳しい条件の中、優に倍を超える兵員を救い出した作戦があった。キスカ撤収に遡(さかのぼ)ること半年前、最前線の島ガダルカナルからの撤収作戦がそれである。
昭和17年12月31日、宮中で大本営政府連絡会議、俗にいう御前会議が開かれ、ガダルカナル島奪回作戦を中止し、翌年1月下旬~2月上旬に在島部隊を撤収させる方針案を陸海軍両総長が上奏し、昭和天皇の決裁を得た。これを受け大本営は翌昭和18年1月4日付で撤収の大命を下達、陸海軍中央協定で撤収作戦は「ケ号作戦」と名付けられた。「ケ」は「捲土(けんど)重来」の頭文字に因(ちな)んだもの。ガダルカナル島に上陸した兵約3万2000人のうち、この時点で約1万4400人の陸海軍将兵が米軍と戦闘状態にあった。

大命は今村均第8方面軍司令官と山本五十六連合艦隊司令長官に伝達されたが、「兵の“3分の1撤収可”という中央の見積もりは甘過ぎる」「準備には最低でも2カ月を要する」(山本五十六)など前線からは作戦の前途に厳しい意見が呈された。
1月15日、大本営からラバウルに派遣されていた第8方面軍参謀井本熊男中佐がガダルカナル島に出向き、米軍と戦闘を続けている第17軍司令部に直接、撤収の決定を伝えた。最後の総攻撃を命じに来たものと思い、宮崎周一参謀長は「来るのが遅い」と一喝、来島目的がケ号作戦の伝達と知るや、大命に背くわけではないが撤退は現実的に不可能と反駁(はんばく)した。

既に1万数千人の部下を殺し、残る1万4千人余も疲労の極にあり撤退行動は無理、撤退を敵に気づかれたら部隊は壊滅させられてしまう、死傷者や病人を残し戦場を去るのは武人として為(な)し難く、皇軍統帥の将来にも悪影響を及ぼす、最後に至れば皆切り死にする覚悟でいるという宮崎参謀長の反論に、他の参謀も同意した。
敵の攻勢を受け、もはや戦線を支えることが不可能となりつつある状況の中、如何(いか)にして1万人を超え、しかも疲弊の極にある兵を米軍に悟られず各戦場から島の西端に集合させるのか、宮崎らの反対は至極当然といえた。
これに対し第17軍司令官百武晴吉中将は、暫(しば)し時間の猶予を求めた後、「大命を万難を排し遂行する」と決した。日本軍は、敵に背を向けて逃げることを軍人最大の恥辱と考える。最後の一兵まで戦い抜き玉砕して果てれば名誉も立つが、敵を前に撤退し、その上、敗走時を米軍に襲われれば部隊は全滅し末代までの恥辱を残すことになろう。百武司令官の決断は「自己の名誉を飾ろうとせず大局に立った立派なものだった」と井本参謀は回顧している。
3次に及ぶ撤収作戦
撤収は3回に分けて行い、第1次撤収(2月1日)では第38師団と海軍部隊、傷病兵が、第2次撤収(2月4日)は第2師団と第17軍司令部、そして最後の第3次撤収(2月7日)で残余の部隊を収容するものとされた。輸送手段について海軍は、既にガダルカナルへの兵員物資輸送で多数の駆逐艦を喪失しており、さらに損耗を重ねることを嫌ったが、山本長官の強い意志により、稼働駆逐艦の大部を挙げて作戦に投入することになった。
駆逐艦部隊はブーゲンビル島南端沖にあるショートランド島の泊地を出港し、ソロモン諸島の中央航路を南下、サボ島の南水路を抜けて深夜ガダルカナル島西端のエスペランス岬付近に到達、収容のための舟艇(大発、小発、折畳舟)を下ろし、岸で待つ将兵を急速収容の後、高速で敵航空機の襲撃圏内から離脱し帰投する段取りであった。
撤収を支援するため、ラバウルの陸海軍機がガダルカナル海域の米艦艇に攻撃を加えたほか、トラック島から近藤信竹中将率いる第2艦隊が南下し、米艦隊の注意を逸(そ)らした。
一方、島では各部隊将兵に、島の西端エスペランス岬に集合するよう命令が出たが、「1月下旬を期して舟艇でルンガ沖に進出、逆上陸して米軍に奪われた飛行場奪還のため第3次の総攻撃をかけるため」と説明され、撤収については秘匿された。
1万2千人余を収容
2月1日、第3水雷戦隊の駆逐艦20隻を以(もっ)て第1次撤収作戦が実施され、途中米軍魚雷艇や攻撃機に襲われたが、予定通り第38師団など5414人を収容し、2日ブーゲンビルに帰着。2月4日の第2次撤収は駆逐艦19隻で行われた。哨戒機がガダルカナル島に接近中の米空母部隊を発見、一時緊張が走った。また進出の途次、駆逐艦部隊は米軍機約60機の空襲を受けたが、直掩(ちょくえん)の零戦隊に助けられ、第2師団など4977人の収容を果たした。
2月7日、駆逐艦10隻で最後の撤収を実施、今回は幸い米軍の攻撃を受けることなく島の残留者等2639人(ラッセル島占領部隊390人含む)が収容された。第3次撤収作戦を指揮した総後衛部隊松田教寛大佐に、全員乗艦終了の報告が各駆逐艦から届いた。駆逐艦からハシケが海岸近くまで漕ぎ寄せ「残った兵は居らぬか」と呼び続け、一兵もいないことを見届け船は島を離れた。時に昭和18年2月7日午後10時20分であった(公刊戦史による)。
3度の作戦で収容された人数は諸説あるが、大本営への報告では1万2682人。半分救い出せれば上々の予想を遥かに上回り、作戦は大成功と言える。半数を失う覚悟でいた駆逐艦の被害も中破2隻で済んだ。ただ救出者のうち1200人は入院加療を必要とし、残りの大半もマラリアなどに罹患しておりブーゲンビルで600人ほどが死亡した。米軍が撤収(りかん)を知ったのは2月9日。公刊戦史の記述と異なり、撤収に取り残された兵士がかなりの数存在した。
(毎月1回掲載)
戦略史家東山恭三






