韓友会(韓国への防衛駐在官、留学経験者が会員)訪韓団の団長として韓国中部の大田市にある国立墓地、国立大田顕忠院を訪問し、生前に一行が御交誼(こうぎ)を賜った故白善燁(ペクソニョプ)将軍の墓前にて追悼慰霊を行った。
1950年6月25日の朝鮮戦争勃発から74年を経た韓国は今や国力を遙(はる)かに充実させ繁栄している。緒戦で北朝鮮軍の急襲に押されて韓国軍は、わずかか1カ月後には釜山橋頭堡(きょうとうほ)の失陥、国家喪失の危機目前に追い詰められた。
29歳という若さで師団長として指揮を執ったペク将軍は、大邱・多富洞(たぶどん)の激戦で「俺が先頭に立って戦う。もし俺がくじけて後ろに下がろうとしたら、まず俺を撃ち殺せ」と将兵の士気を奮い立たせて、韓国軍が反撃に転じた逸話は有名である。その後も戦功を上げ、「朝鮮戦争の英雄、救国の英雄」と呼ばれた。
このような功績から死後は国立ソウル顕忠院に埋葬が予定されていた。将軍が逝去された2020年の左派政権は、ペク将軍が満州国軍官学校を卒業し、朝鮮人の抗日勢力を討伐した部隊にいた「親日派」と呼び、功績を認めようとしなかった。
これに対し「国民葬にすべきだ。国立ソウル顕忠院(墓地)に埋葬されるべきだ」との声も強く、意見が衝突したが、最終的には、遺族の意向で大田顕忠院に埋葬された。訪問団一行としては国立ソウル顕忠院でなく、地方の第2国立墓地で他の将軍墓と同等扱いされていることに複雑な思いがした。
ペク将軍のお墓参りの前に、顕忠院を象徴する顕忠塔に花輪を捧(ささ)げ礼拝した。国家守護に命を捧げた英霊の忠義と犠牲を称(たた)えるこの塔には、韓国訪問の各国元首、政府代表が必ず訪れる場所になっている。
また6月6日は、国のために命を捧げた殉国者、戦没将兵の魂を追悼する国家記念日の顕忠日である。国立ソウル顕忠院で韓国政府による厳粛な追悼行事の開始午前10時には、韓国全土にサイレンが鳴り響いて、護国英霊の冥福を祈り1分間黙祷(もくとう)を捧げるという。
ペク将軍は、「軍事力の弱い韓国だけでは戦えなかった。米軍がいたから戦えた。国民が必死になって戦ったから米軍も本気になって戦った」と、朝鮮戦争の教訓として事あるごとに諭されていた。
国民が国のために命を懸けて必死に戦って国に殉じた将兵を称える国立の追悼施設があり、英霊への敬意と感謝の念を示す国家国民の姿があってこそ将兵は必死になって戦うのであろう。
翻って靖国神社問題を抱えるわが国にあっては、「事に臨んでは危険を顧みず身をもって責務の完遂に務め…」と服務の宣誓をした自衛官が戦死しても現時点では、大東亜戦争までの戦死者を祀(まつ)る靖国神社には合祀(ごうし)されなく、国立の追悼施設も存在しない。国家としての慰霊、追悼が不明な自衛官は、何を永遠の魂の支えとして戦うべきなのであろうか?
「台湾有事は日本有事」とかで安全保障問題が論議され徐々に解決方向に歩みだしているのは心強いが、これまで放置されてきた靖国問題をこれ以上看過してはならない。
将軍は朝鮮戦争当時に着用した戦闘服姿で埋葬されている由であった。生前に賜った御薫陶に深く感謝し哀悼の誠を捧げるとともに、今は泉下で、共に戦った戦友と幸せな笑みを浮かべておられる姿を思いつつ御冥福をお祈りして国立大田顕忠院を後にした。(遠望子)