
道元が開基した日本の曹洞宗の大本山は、福井の永平寺と横浜・鶴見の總持寺(そうじじ)の二つがある。永平寺3世、徹通義介(てっつうぎかい)が、難解な道元の教えを民間信仰や密教の教えなども加味して分かりやすく説く事に力を入れ、保守派との間で溝が生じたため、加賀の大乗寺に拠点を移した。その教えを受け継ぐ弟子の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が能登に永平寺に並ぶ根本道場として總持寺を置いた。
こうして曹洞宗は永平寺派と總持寺派に分かれることになるが、分裂による両派の争いは絶えなかった。ともに本山を主張するが、結局、徳川家康による調停で永平寺と總持寺はともに大本山ということになった。今も曹洞宗のトップである管長は、両派の住職が交代で務めることになっている。
家康は浄土真宗の内部対立を利用して西本願寺(浄土真宗本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)に分けてコントロールしたことはよく知られている。曹洞宗でも同じように、“分割統治”を行い成功した。三河一向一揆に苦しめられた家康は、宗教勢力と折り合いを付けながらコントロールするすべを学習していた。
徳川幕府はキリシタン取り締まりのために、今も続く檀家(だんか)制度の元となる寺請(てらうけ)制度を設けた。幕府の巧妙な宗教政策により中世のような宗教間の争いなどはなくなり、寺院の経営や社会における位置も安定した。しかしその一方で、習俗化、形骸化の元もつくられた。
(晋)