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著名な社会学者(日本人)がロンドンでヒッピーに「なぜ、君は働かないのか?」と訊(たず)ねた。ヒッピーは即座に「なぜ、あなたは働くのか?」と反問した。それに対して社会学者は「完全に返答に窮した」と書いている。評論家で劇作家の福田恆存(つねあり)(1994年没)は、これに噛(か)みついている。
「完全に返答に窮した」はずの社会学者は、その後も自分の仕事に対して格別深刻な煩悶(はんもん)を抱く様子もなく、大学で働き続け、物を書き続けていた。社会学者はそんな話を雑誌か何かに書いたのだろうし、福田もそれを読んで、この学者について書いたのだろう。
無論、社会学者は酒場で仲間同士が話し合うような調子で気楽に短文を書き流したにすぎない。特別非難に値するほどのものでもない。世間で交わされる言葉にしても、大方は話を盛っている。大げさに言うことはしばしば自然に行われる。
そうした事情は重々承知の上で、福田はそれを『日本への遺言』(文芸春秋、95年)という本の中であえて取り上げた。
社会学者もヒッピーの発言に少しは面食らっただろうが、あれほど大げさな文章にする必要は全くなかったというのが福田の言い分だ。
文学者だった福田が、この社会学者のようにガサツな表現をすることはなかった。言葉へのこだわりは、文学者であることの最低限の責任感だ。それが貫かれていたことは紛れもない。社会学者に対する「世におもねるな」というメッセージは今も重い。