京都の初夏を告げる下鴨神社と上賀茂神社の例祭、葵祭が行われた。祇園祭、時代祭と共に京都三大祭りの一つで、その中でも6世紀、欽明天皇の頃から続く最も古い祭りだ。京都に都が遷(うつ)ってからは、天皇が勅使を送る勅祭となった。
祭りのハイライトは平安装束をまとった人々が都大路を練り歩く「路頭の儀」。その平安絵巻を見ようと多くの見物客が沿道を埋めた。平安時代には、あの紫式部や清少納言も行列を眺めた。
『源氏物語』第9帖「葵」では、有名な“車争い”が語られる。祭りの行列に参加した光源氏の姿を見ようと、源氏の愛人、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)は見物人で混雑する一条大路で待っていた。そこに源氏の正妻、葵上がやって来て、御息所は葵上の従者に強引に立ち退かされる。
人々が見守る中で辱めを受けた御息所は、これを恨んで生霊となり、葵上を苦しめる。紫式部は葵祭の実際の混雑をヒントに、この有名なエピソードを書いたのだろう。
『枕草子』の第38段には「祭の還(かえ)さ見るとて、雲林院・知足院などの前に、車を立てたれば」とある。当時、「祭」といえば葵祭を指した。清少納言は、葵祭で斎王が住まいの斎院に帰還するのを雲林院の辺りで見物したのである。
現代は民間から選ばれた女性が「斎王代」となる。清少納言の頃は、未婚の内親王や女王が務める斎王が実際に行列に参加した。当時の女性貴族にとって、賀茂の神に奉仕する斎王は正真正銘のヒロインだった。