Homeコラム【羅針盤】「強くて優しい日本」たれ

【羅針盤】「強くて優しい日本」たれ

朝の池袋駅で、キャリーケースを手で押しながら歩いていた80歳くらいの婦人が、改札口を出たところで転倒した。周囲の通勤者は、この老人とキャリーケースを避けるようにして歩き誰一人声を掛けない。「大丈夫ですか」と、キャリーケースを起こして差し上げた。老人は、「ありがとうございます。大丈夫です。ちょっと、ブロックに躓(つまず)いて。いつもは注意しているんですが」と立ち上がり、点字ブロックを避けて歩きはじめた。

点字ブロックは、日本で発明され、今や日本では全国隅々まで当たり前のように敷設されている。世界の多くの国にも広まり、ISO(国際標準化機構)規格になっていると聞いた。しかし欧米はじめ、日本ほど普及している国は見ない。これは、目の不自由な人からの要望で生まれたのだろうか。

国内では、高齢者や足腰の弱い人が躓き危険だとか、障害者の車椅子などが動きにくいなどの問題を耳にすることが多い。考えてみれば、毎日通る池袋駅構内で目の不自由な人と会う日が、月に何日ぐらいあるだろう。何日もないと言える。

点字ブロックは、本当に必要なのかと思う。世界のいろいろな国を訪問して、同じように日本にあって世界では見ないものが多いことに気付く。駅のホームドア、構内トイレの音声案内、田舎の車がほとんど通らない道のガードレール、道路上の白線等々。来日した友人から、ゴルフ場に向かう山道で聞かれた。「何でこのガードレールはあるのか?」と。「それは事故防止だよ」と答えたら、「車で落ちたら、ドライバーの自己責任だろう」と。

思えば、大東亜戦争敗戦後GHQが押し付けた「日本国憲法」と通称「プレス・コード」と言った報道規制30項目を、守り続け80年を迎える。この間わが国は、教育の現場・マスコミの在り方から日本の歴史・伝統・文化の芽が摘まれ、日本人が大切にしてきた「優しさと自己責任」が消えて、「個人の人権と平等」が独り歩きしている。

お叱りを承知で敢(あ)えて言いたい。歩道の本質を失った点字ブロックの在り方は、再考されるべきである。目の不自由な人が歩いていれば、誰かが必ず「どちらに行かれますか」と聞き、手を差しのべて案内する。この「優しさ」こそが当たり前のことだろう。点字ブロックが敷いてあるのだから、一人で歩けよと言わんばかりに「優しさ」を出せない世間になっていないだろうか。

船乗りの世界では、「何かおかしい」と思ったら船を止めよと教わった。今こそ一度船を止めて、「押し付け憲法」をはじめ各部を点検する時だ。「強くて優しい日本」を取り戻すために。(呑舟)

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