トップコラム赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(35)キスカ島撤収作戦(下)

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(35)キスカ島撤収作戦(下)

入念な計画成功させた平素の鍛錬

泰然たる指揮官と緻密な幕僚コンビ

昭和16年6月、キスカ島に上陸した日本軍

功を焦らぬ木村少将

キスカ撤収(昭和18年7月29日)は、米軍が包囲を解いた一瞬の隙を突く電光石火の如(ごと)き作戦であった。僚艦同士の衝突でキスカ湾突入が予定日より遅れたが、遅れたその日に偶々(たまたま)米艦隊が補給のためキスカ海域から離脱するという幸運に恵まれた。

だが、その僅(わず)かなチャンスを活(い)かすことができたのは、第1水雷戦隊各艦の秀でた操艦技量や入念緻密に立てられた収容計画、そして素早く救援駆逐艦への移乗を終えた守備隊兵士の練度と規律の高さがあったればこそだ。平素の鍛錬と努力が幸運を掴(つか)み取ったのである。またキスカにおいて陸軍の北海守備隊と海軍の第51根拠地隊が互いに協力し合う良好な関係を保っていたことも、迅速かつ統制の取れた撤収活動を可能にしたといえる。

指揮官木村昌福少将の決断力も作戦を成功に導いた要因とされる。第1次作戦の際、無理にキスカ湾に突入せず慎重を期し引き返したことが2度目の成功に繋(つな)がったとの指摘である。出世志向の強いエリート軍人は、軍歴に傷がつくことを恐れる。「傷」とは、作戦の失敗よりも自身の組織内での評価の低落を意味する。

日本軍撤収後、キスカ島に上陸する米軍

攻撃精神絶対主義で後退を許さず、常に前に進むことを強いる組織にあって、不安が残るからと引き返す行為は女々しい臆病者と批判されるのが常だ。昇進に拘(こだわ)るエリート軍人には到底取り得ない選択肢である。仮に突入し米軍の攻撃に遭い作戦が失敗し、あるいは一部の将兵しか収容できなくとも、敵を恐れぬ勇敢な行為と評価されるのが海軍である。

木村昌福のハンモックナンバーは振るわず、地味な現場勤務ばかり、大佐で退役するものと周囲も本人自身も思っていた。だがミンドロ島沖海戦の際、敵機に襲われる危険を冒しても船を止め、乗員の救助を命じたエピソードが物語るように、幾多の修羅場を経験した木村は臆病な指揮官では決してなかった。彼は己が評価や出世よりも、全将兵の一括収容という作戦目的の完全な達成に拘った。だから深い霧が望めないと判断し、引き返したのである。

突入の好機であったのになぜ艦隊は引き返したのかとキスカ守備隊は訝(いぶか)しがった。第1水雷戦隊や第5艦隊にも木村の判断を貶(けな)す者が多かった。実際この時、アムチトカから米軍機は飛来せず、思い切って突入していたら、あるいは作戦は成功したかもしれない。

だがそれは後知恵の結果論だ。強いプレッシャーに襲われながらもキスカ湾突入の選択肢を自らはねのけ、功を焦らず、軍人美学を退け、捲土(けんど)重来を期した。冷静かつ慎重で、匹夫の勇を嫌う木村の面目躍如の決断と言える。

また威張らず、自慢せず、叱ることもなく、さりげない思いやりを見せる司令官木村昌福を多くの部下は慕った。第1次作戦失敗の後、第1水雷戦隊には周囲から冷たい視線が注がれたが、その悔しさや無念さをばねに、固い結束とチームワークを築き一丸となって第2次作戦に臨むことができたのは、ひとえに木村の人望によるものである。

有近先任参謀の功績

木村はここ一番の大所では自ら断を下したが、ほとんどの業務は部下に委ねた。前任者森友一少将のように些事(さじ)に細かく口煩(くちうるさ)くもないので、部下から好まれるタイプの指揮官であった。だが指揮官が職務を下に降ろすタイプの場合、優秀な幕僚が傍らにいなければ、難しい作戦を成功に導くことなどできない。

戦後、キスカ作戦の奇跡的な成功を木村一人の功績とする風が強いが、先任参謀有近六次中佐の果たした役割は極めて大きい。彼の功績も正しく評価されねばなるまい。木村から全幅の信頼を得て、アリューシャンに精通した豊富な知識と実戦経験を基にキスカ撤収作戦を纏(まと)め上げたのは、有近である。

北西からのキスカ湾進入も気象専門士官の配置も、彼の意見具申によるものだ。泰然たる指揮官には緻密かつ柔軟な思考ができる幕僚の補佐が必要になる。キスカの成功は、木村と有近のコンビが生み出したというべきだろう。

アッツ英霊の加護か

半年前、日本軍はガダルカナル島から1万余の将兵を密(ひそ)かに撤収させている。だが米軍はキスカからの日本軍撤退の可能性を顧慮しなかった。キスカより西のアッツで日本軍は玉砕戦法を選んでおり、より救出の困難なキスカでも同様の措置に出るものと思い込んでいた。またギッフェン少将指揮の米艦隊は、島に接近する日本艦隊を撃滅したと信じていた。

その上、米軍はアッツ島攻略時の日本兵の凄(すさ)まじい抵抗ぶりに恐れをなし、キスカでは犠牲を最小限に抑えるため、事を急がず上陸作戦の実施に極めて慎重だった。撤収の事実に気付かぬまま、米軍は昭和18年7月31日、無人のキスカ島に砲爆撃を再開、半月間に106回の爆撃と15回の艦砲射撃を続けた。8月15日、3万4000余の部隊が上陸したが、日本軍の撤退を知ったのは8月22日のことで、その間同士討ちで56人の死傷者を出している。

第5艦隊は、潜水艦から水上艦艇への輸送手段変更、さらに撤収作戦のやり直しとキスカ守備隊収容までに相当の月日を要した。失敗を重ねながらも、間一髪、米軍の上陸作戦が始まる寸前に守備隊員を収容できたのは、アッツ島将兵の勇戦が時を稼いでくれたからだ。

キスカからの帰投時、第1水雷戦隊がアッツ島の南を通過した際、駆逐艦上でキスカ守備隊員の多くが北の方角から「バンザイ」と叫ぶ日本兵の声を聞いたという。幻聴と片付けてしまえばそれまでだ。しかし、キスカ5200人将兵の命を救ったのは、アッツ英霊の加護ではなかったろうか。

(毎月1回掲載)

戦略史家東山恭三

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