トップコラム赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(34)キスカ島撤収作戦(上)

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(34)キスカ島撤収作戦(上)

事を急がなかった木村昌福少将

2回目の作戦で5183人全員収容

「太平洋奇跡の作戦

木村昌福中将

昭和18年5月20日、大本営はアッツ救援を断念すると同時に、キスカ島守備隊の撤収を決めた。しかしキスカはアッツよりも東の最前線に位置し、早晩アッツと同じ運命を辿(たど)るものと思われた。そうした絶望的状況の中、海軍は不可能と考えられた撤収作戦を見事成功させ、守備隊全員の命が救われた。戦後の昭和40年、この作戦は東宝で「太平洋奇跡の作戦」として映画化され、広く世に知られるようになった。映画はフィクションも多いので、史実に従いながらキスカ作戦を振り返り、奇跡を可能にした要因を探ってみたい。

キスカ島撤収作戦は「ケ号作戦」と名付けられた。この年2月に実施されたガダルカナル撤退作戦と同名で、「ケ」は「捲土(けんど)重来」の頭文字に拠(よ)る。撤収はなるべく速やかに潜水艦で実施し、状況により輸送船、駆逐艦も併用すると決められた。これに従い5月から6月にかけて潜水艦による撤収が行われ、872人を救出した。だが米軍の警戒態勢が厳しくなり潜水艦の犠牲が続いたため作戦は中止され、水上艦艇で一挙に敢行する方針に転じた。

木村少将座乗の第1水雷艦隊旗艦巡洋艦阿武隈

第5艦隊隷下の第1水雷戦隊がその担当になるが、同戦隊司令官の森友一少将が脳溢血(いっけつ)で倒れたため、ニューギニア作戦で負傷、呉の海軍病院で療養中だった木村昌福少将(後に中将)が急遽(きゅうきょ)その後任に発令された。

木村少将はハンモックナンバー(海軍兵学校卒業時の席次)が振るわず(118人中107番)、海軍大学校の受験にも失敗、それ故、海軍中央の勤務歴は皆無だった。生粋の水雷屋で現場の叩(たた)き上げだったが、実戦経験豊富で部下の信望も厚かった。出世主義とは無縁で、細事を幕僚に委ねる鷹揚(おうよう)さがあったが、責任は自ら取った。勇敢な指揮官である一方、事を急かず慎重な性格で、蛮勇を“匹夫の勇”と退けた。

木村は、作戦の細部を先任参謀で北方方面に詳しい有近六次中佐に一任、有近はレーダー装備の新鋭艦を含む駆逐艦の増強と気象専門士官の派遣を艦隊司令部に求めた。キスカを囲む強力な米艦隊の目を逃れ撤収するには深い霧を利用するしかなく、霧の発生日を正確に予測するには気象専門官の知識が必要だった。有近の要求は全て認められた。有近任せの木村が唯一強く指示したのは、キスカ湾での収容は必ず1時間以内に終えよということだった。無防備の状況で作業が長引けば米軍機に発見され全滅を喫する恐れが高まるからだ。

霧が薄れ一度は帰投

7月7日巡洋艦阿武隈以下16隻が幌筵を出港、撤収作戦が開始された。霧の発生予想から11日がキスカ湾突入の最適日とされたが、期待した霧は出なかった。延期した13日も霧は少なく中止。燃料の関係で15日が最後の機会だった。この日待望の霧が現れ、一旦(いったん)は突入を決心した。だが次第に天候は回復し、視界が開けてきた。キスカ島の気象班は「突入適」と予測したが、旗艦阿武隈に乗る気象士官橋本恭一少尉は木村の質問に対し、きっぱりと「キスカ湾に到達する頃視界は良好となり、アムチトカ島の米軍機も飛行可能」と答えた。

この機を逸せば二度と救出のチャンスは巡って来るまいと、各駆逐艦長は次々に木村に突入を促した。暫し黙考した後、木村は先任参謀に帰投を命じた。「帰ろう、帰ればまた来ることができるからな」と呟いた。

幌筵に帰投した第1水雷戦隊には、第五艦隊や軍令部から強い不満が出された。夏になれば霧は消えてしまう。燃料の余裕もない。それを知りながらなぜ突入しなかったのか。木村は臆病者と誹(そし)られ、針の筵(むしろ)のような日が続いた。第2次撤収作戦には第5艦隊司令部が見張り役として随伴、突入の判断も第5艦隊司令官が下すこととされた。面子(めんつ)まる潰(つぶ)れだが、それでも木村の様子は平素と変わらず、舷側から釣り糸を垂れるなど泰然としていた。

難所乗り切り湾突入

7月22日、第2次撤収作戦が開始された。第5艦隊司令長官河瀬四郎中将座乗の巡洋艦多摩が第1水雷戦隊に同行した。米軍は日本軍の電信傍受でこの動きを察知し、戦艦、巡洋艦など7隻の艦隊をキスカ近海に出撃させた。26日夜、レーダーでキスカ南西海上に日本の艦隊を探知した米艦隊は一斉に砲撃を開始したが、翌日捜索しても日本艦隊の痕跡は一切発見できなかった。探知したのは島からの反響映像だったといわれている。しかし指揮官ギッフェン少将は日本艦隊全滅を疑わず、補給を受けるため全ての米艦艇がキスカ海域から離れた。その結果28日夕から29日にかけて封鎖は解除され、キスカへの途(みち)が開かれた。

米艦隊が砲撃したのと同じ26日夕刻、キスカに向け航行中の日本艦隊は深い霧のため海防艦国後と阿武隈が衝突し、突入が29日にずれ込んでしまった。キスカの部隊は艦隊の到着に備え、連日数時間かけて各配備場所と集合地点の往復を繰り返していた。橋本少尉の霧発生予測を受け、木村は29日の突入を決意、だがキスカ湾入時刻を予定より4時間繰り上げ午後1時としたため、キスカの部隊は大慌てになった。

艦隊は通常の南東方向からではなく、米軍と遭遇する危険が少ない北西方向からキスカ湾に進出。難所が多くこれまで一度も通ったことのない海域だった。岩を米艦と誤認し魚雷を発射するハプニングはあったが、見事艦隊は未知の航路を乗り切り、29日午後1時40分キスカ湾に突入。この時、湾内の霧が晴れ渡った。直ちに大発(舟艇)による撤収が開始され、午後2時35分、5183人の守備隊員全員を収容。木村が命じたよりも早く55分で作業を終えた。第1水雷戦隊は無事幌筵に帰投。撤収作戦は完全なる成功を収めたのである。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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