【上昇気流】(2024年3月29日)

蜜柑

芥川龍之介の名作短編「蜜柑」は、横須賀の海軍機関学校の教師をしていた頃の体験を基にしている。「疲労と倦怠」の中にある「私」が横須賀駅の2等客車で発車を待っていると、発車間際に1人の娘が駆け込んできて前の座席に座った。

身なりも顔立ちもよくない田舎娘に「私」は不快感を抱き、娘がトンネルの中で窓を開けるに至って内心腹を立てる。

ところが踏切に差し掛かったところで、娘は待っていた男の子たちに、窓からばらばらと蜜柑を投げ与える。これから奉公に出る娘が、見送りに来た弟たちの労に報いたことを了解した「私」は一瞬、朗らかな心持ちとなる。

NHKの「沁(し)みる夜汽車セレクション」で紹介されたエピソードは「蜜柑」を思い出させた。愛知県のその女性視聴者(72)は50年前、職場内のトラブルで誰も信じられなくなり、ある夜、三重県の亀山発の最終列車に飛び乗った。

座席に着くと涙が溢(あふ)れ、真っ暗な空を眺めていると、前に座っていた青年が蜜柑を差し出して「食べませんか」と声を掛けてくれた。「遠くに行きたい」と話すと、青年は「僕が警察官でなければ、東京へ連れていってあげたいが、できない。それよりも両親がとても心配しているから、次の駅で降りて必ず家に連絡することを僕と約束してください」。

「その言葉で私は救われました」と女性は振り返る。「今では警察官だと言うのは優しい嘘(うそ)だったような気がします」。心に沁みる話である。

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