
「赤い鳥小鳥」「待ちぼうけ」「ペチカ」「揺籃(ゆりかご)のうた」など、生涯で1200編もの童謡を創作した北原白秋もその一人。童謡の半分は小田原の地で創作したと言われる。
3月20日の春分の日、歴史好きな知人の案内で、「白秋童謡の散歩道」巡りに出掛けた。
小田原駅から15分ほど上ると、北条早雲が城を取り囲むように造った空堀に沿って、4・5キロの「白秋童謡の散歩道」が続いている。
第1次大戦当時、極貧生活にあった白秋は妻・章子と共に小田原に移り住み、童謡「赤い鳥小鳥」を発表。以来、白秋の詩に山田耕筰が曲を付けることで一躍売れっ子詩人となる。
8年の小田原生活の間に、丸太とかやぶき屋根の小屋住まいが、3階建ての豪奢(ごうしゃ)な邸宅に変わるほど、この地で国民的詩人として果実を実らせた。
みかんやレモンの木、菜の花や早咲き桜が咲き誇る「からたちの花の小径」をしばらく行くと、右手に大山など丹沢山系の山々が連なり、眼下には小田原市街と相模湾が広がっていた。
旅人をやんわり包み込む、のどかな自然風景である。「からたちの花」「この道」など、日本人の郷愁をそそる美しい作品が生まれたのがよく分かる。
そんな白秋だが、3度の結婚、2度の離婚歴がある。瀬戸内寂聴の『ここ過ぎて白秋と三人の妻』には、不遇時代の白秋を献身的に支えた2番目の妻・章子のことが書かれている。離婚後、50歳で尼僧となるなど、壮絶な人生を送っている。
独学で日本の植物学の父となった牧野富太郎には妻・壽衛がいたように、3人の献身的な女性の存在なくして、白秋の名作「からたちの花」「この道」の誕生はなかったかもしれない。女性の視点から歴史や人物を考察すれば、違った世界が見えてくる。
(光)