大本営の不作為が招いた悲劇
米兵たじろがせた最後の総攻撃

2600余人が戦死
昭和18年5月29日夜8時頃、総攻撃を決意した山崎保代大佐は生存者約300人を本部前に集合させ、指揮官として全滅に至らしめたことを詫(わ)びるとともに、武人として立派な最期を遂げることを望むと訓示した。その後、全員が日本に向かい「天皇陛下万歳」を三唱、最後の電報を打った後、無線機を破壊した。この日午後、大本営に宛てた電報では、総攻撃の態勢が次のように報告されている。
「野戦病院ニ収容中ノ傷病者ハ其ノ場ニ於テ軽傷者ハ自身自ラ処理セシメ重傷者ハ軍医ヲシテ処理セシム非戦闘員タル軍属ハ各自兵器ヲ採リ陸海軍共一隊ヲ編成攻撃隊ノ後方ヲ前進セシム共ニ生キテ捕虜ノ辱シメヲ受ケサル様覚悟セシメタリ」

部隊は三隊に分けられた。一隊は元気な者、二隊は軽傷者、三隊は重傷者と非戦闘員で編成され、非戦闘員は戦死者の銃を手に取った。
総攻撃は29日夜半から30日未明にかけて行われた。山崎大佐は右手に軍刀、左手に日の丸を持ち、攻撃の先頭に立った。虚を突かれた米軍は前衛防衛線を突破され、後方部隊にまで日本軍は突入した。その時の様を米兵が伝える。
「自分は自動小銃を小脇に抱えて島の一角に立った。霧が垂れ込め百メートル以上は見えない。ふと異様な物音が響く。すわ敵襲撃と思って透かして見ると、3百~4百名が一団となって近づいてくる。(中略)どの兵隊もボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃の無いものは短剣を握っている。最後の突撃というのに、皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいてくる、我々米兵は身の毛をよだてた。大きな拡声機で『降参しろ』と叫んだが、日本兵は耳を貸そうとはしない。ついに、わが砲火が集中された」(米軍中隊長ハーバート・ロング中尉の回想)
「突撃の壮烈さに唖然(あぜん)とし、戦慄(せんりつ)してなす術(すべ)がなかった」と米軍戦史も記録する。
だが一時は大混乱に陥った米軍も徐々に態勢を立て直し、明け方には日本軍の前進は止まった。米軍工兵隊の陣地前には多数の日本兵の死体が折り重なっていた。山腹や谷間に逃れ自決した者もいた。アッツ守備隊2667人中生き残ったのは捕虜になった29人にすぎない。米軍は戦死約600人、戦傷約1200人。3日で占領する予定が18日を要した。
第5艦隊の江本弘海軍少佐、沼田宏之陸軍大尉、海軍省嘱託秋山嘉吉の3人は戦況報告のため最後の突撃から外され、アッツ湾東岬に移動し潜水艦による収容を待つことになった。だが派遣された伊号第24潜水艦はアッツに突入し、3度にわたり接近を試みたが連絡に失敗、6月11日米軍に撃沈された。江本少佐一行は東海岸突端の洞窟で自決、戦後の昭和28年7月、日本の慰霊団によって3人の遺骨が発見された。
「玉砕」と初めて発表
5月30日、大本営はアッツ島守備隊の全滅を発表、その際、初めて「玉砕」の表現を用いた。玉砕の語源は、中国の史書『北斉書』の元景安伝の一節「大丈夫寧可玉砕不能瓦全」にある。「瓦のようにただ形を整えて長生きするよりも、忠義や名誉を重んじ潔く玉の如(ごと)く砕け散る」の意である。
太平洋戦争勃発後、部隊が全滅した戦例は既にあり、軍内部で玉砕の語句が用いられたこともあった。だが国民に向けて玉砕と発表したのはこの時が初めて。山本五十六連合艦隊司令長官の戦死発表(5月21日)の直後でもあり、国民の衝撃は大きかった。これ以降、大本営は相次ぐ全滅を「玉砕」と美化し続けた。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓は国民の隅々にまで定着し、玉砕が日常化する。その行き着く先が“一億玉砕”論であった。
兵見殺しにした海軍
大本営は補給困難な最北の小島に兵を送り込んだ後、事後の戦略構想に思いを巡らさず、また撤収にも踏み切らず、兵を放置したまま無為に時を過ごした。そして米軍が本格反攻に出た時には補給や救出は至難を極め、兵を見殺しにするしか術がなかった。当然予測し得た結末である。
戦争の遂行に重要な役割や使命を果たしての全滅であればまだしも、アッツ守備隊の玉砕は、大本営の遅疑不作為が招いた悲劇にほかならない。自ら言い出し、必要性の乏しい作戦を強行した挙げ句、船や燃料を惜しみ2600余の将兵を見殺しにした海軍の罪は特に重い。
大本営の谷萩那華雄報道部長はラジオで「山崎部隊長は只(ただ)の一度でも一兵の増援も要求したことがない。また一発の弾薬の補給をも願」わず、その最後は楠木正成の湊川における捨て身の尽忠を彷彿(ほうふつ)させるものと国民に喧伝(けんでん)したが、実際には増援の要請は出されていた。守備隊員に対する疚(やま)しさ故の虚飾であった。
棄兵扱いされながらも、山崎部隊長以下の将兵は壮絶な戦いを繰り広げ、米軍を戦慄させた。以後、タラワやサイパン、テニアン、ペリリュー、硫黄島など各戦場で同様の玉砕戦が繰り返され、日本軍は米軍兵士に恐怖を与え続けた。
山崎部隊長以下の奮戦敢闘は称(たた)えられ、顕彰され、そして後世に語り継がれねばならない。しかし、命と引き換えの彼らの武勲を称賛することで、軍中央の戦争指導の拙劣さが覆い隠され、その責任が不問に付されることがあってはならない。
(毎月1回掲載)
戦略史家東山恭三