わが国においては原子力の活用について盲目的に忌避否定する傾向が強い。大東亜戦争における広島、長崎の悲惨な被爆体験、および戦後の占領米軍による日本の絶対的悪玉論の洗脳・刷り込みの影響が大きいのであろう。
この傾向に東日本大震災による東電福島第1原発の事故の経験が拍車を掛けた。原子力発電に対して日本社会が持つ不安感・不信感は強い。その中身は、このまま適切な規制をせず原子力発電を続けた場合、将来取り返しのつかない事態を引き起こす。
即(すなわ)ち、将来福島第1原発のような大規模原子力災害が再び発生した場合、国土が利用不能になり、日本人全体にも放射能で甚大な被害が発生するとの心配・懸念である。
しかし原子力技術は、発電分野に加え、保健・医療、食糧・農業、環境・水資源管理、産業応用等、非発電分野においても社会・経済の発展にとって不可欠な技術とのことである。特に発電分野では、近年、国際的なエネルギー需要の拡大や地球温暖化問題への対処の必要性等から、原子力発電の拡充・新規導入を計画する国が増加している。
しかも原子力の活用にリスクゼロを要求するのは合理的ではない。原子力を利用しない安全保障・経済のリスクの方が遥(はる)かに大きい。エネルギーだけを見ても、化石燃料は輸入に絶対的に依存しており、再生可能エネルギーは、どれも現在は不安定で高価だからである。
今はまだ高コストの再生可能エネルギー導入を支えるため、国は「再生可能エネルギーの固定価格買取制度」、即ち再生可能エネルギーで発電した電気を、電力会社が一定価格で一定期間買い取ることを約束する制度を定めている。このため、現在は再生可能エネルギー発電促進賦課金が電力使用者に1㌔㍗時当たり1・4円徴収され一般家計を圧迫している。
更に10年で150兆円のコストと言われる脱炭素の法制化が着々と進んでいると聞く。さすれば光熱費は高騰し、産業は低コストの海外に逃避して空洞化し、日本経済は衰退する。
また原子力発電のリスクを過大に評価し、脱原発を急速に進めると、原子力産業を疲弊させる。それは、日本の国際的競争力・技術力や発言力の低下を意味する。ロシアや中国が広く低開発国、後進国等に向けて原子力発電の輸出を積極的に進めていることを考えると、国際的なエネルギー開発普及競争での日本の敗北にも繋(つな)がる。
報道によれば、令和6年能登半島地震の発生に伴い北陸電力・志賀原子力発電所でも幾つかの被害が発生したが、一部マスメディアは公表された施設の軽微な被災状況を、センセーショナルな見出しで、必ずしも原発の仕組みに精通していない一般市民の不安を不必要に煽(あお)る報道を展開した。占領期における日本悪玉論の刷り込みの影響がまだ根強いと言える。
このように、いかなる観点からしても、原子力の平和利用は、積極的に推進すべきで、国家資源を現行の脱炭素政策より優先的重点的に投入すべきである。それは脱炭素の効率的施策にもなる。更に言えば、それは広島・長崎で悲惨な経験をした日本国民の、他国民に優先する権利であるとも言える。
核兵器の残酷性、非人道性は、日本国民の人類への責務として、今後も語り継ぎ国際世論に訴えて行くべきである。しかし、物的技術の発展に人類の知的・道徳的レベルの進歩が伴わない現在、その訴えが、近い将来の核兵器廃絶に繋がるとは到底思えない。
今や戦後80年を数える。そろそろ空想的平和論、盲目的軍事力・原子力否定論等から脱し、憲法を格調高く改正し、かつて日本が目指した五族共和、八紘一宇の精神をもって、知的・道徳的レベルの高さで世界をリードし、人類の平和と発展に貢献する国際国家・国民に脱皮する時期である。(遊楽人)