【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(32)玉砕の島アッツ(上)

大本営、“放棄”に方針転換

野放図な戦線拡大アリューシャン攻略

アッツ島を進撃する日本軍歩兵部隊

戦略を再考せず放置

昭和17年6月3~5日にかけてアリューシャン作戦が発動された。角田覚治少将の率いる第4航空戦隊(空母龍驤、隼鷹)はダッチハーバーの米軍基地を空襲。6日には陸軍の北海支隊がアッツ島、7日には海軍の第3特別陸戦隊がキスカ島に上陸し、共に無血占領した。アッツ島守備は陸軍、キスカ島守備は海軍の担当とされ、主力はキスカ島に置かれた。

年中ガス(濃霧)が立ち込め暴風雪が吹きまくる寒冷不毛の島に兵を送り込んだ目的は、米軍の北からの本土進攻に備えるとともに米ソ連携の遮断、さらにアラスカ準州に属す米本土を占領し、米国民に精神的打撃を与えることにあった。同時期に行われたミッドウェイ攻略の陽動作戦と位置付けられ、米空母の進出を促す狙いも込められていた。

アッツ島に上陸した米軍

だが短期決戦構想の下、米空母の早期撃滅を至上命題に掲げながら、アリューシャンの小島まで占領する必要があったか、疑問である。兵力分散の愚に加え、占領地域の野放図な拡大に拘(こだわ)る海軍の悪弊がまた顔を出したのだ。しかもミッドウェイ海戦に大敗(6月5日)しながら、アリューシャン作戦は続行された。即中止すべきであった。またこの作戦中、龍驤から発進した古賀一等飛行兵曹操縦の零戦がアクタン島に不時着、古賀は首の骨を折り即死し、無傷の零戦が米軍の手に落ちる不幸も招いた。零戦の優位が失われる契機となった。

島は占領したが、ミッドウェイの大敗北で太平洋の制海・制空権を失った日本は、アリューシャン方面で作戦を行う余裕を失う。補給が困難になった以上、大本営は速やかに両島から兵を引き揚げるべきだった。だが戦略を再考もせず、守備隊をそのままに放置した。陸軍は戦線の後退を嫌い、海軍は自ら主導した作戦でありながら、主戦場となった南方、特にガダルカナル作戦にかかりきりで、関心を無くした北に船を割く気はなかったからだ。

一方、日本軍のアラスカ進攻の可能性が遠のいたとはいえ、国土を占領された屈辱を晴らすべく、早くも占領5日目の6月12日、米軍機がキスカに来襲、7月には両島近海に米潜水艦が出没。さらに米軍は8月末、キスカ東方のアダック島に飛行場を建設し、9月にはキスカへの空襲が本格化する。

補給路を断たれ孤立

この動きを知った大本営は9月上旬、アッツの部隊をキスカに移すことを決定。占領僅(わず)か三月にして北海支隊は築いた施設を全て破壊しキスカに移駐。ところがその約一月後、大本営は北の守りが心もとないと北千島要塞(ようさい)歩兵隊にアッツ再占領を命じ、10月から翌年3月にかけ5回の輸送で2650人の将兵をアッツに送り込んだ。場当たり主義の極みだ。しかも米軍が本格的反攻に出た場合、この程度の増強で島を守り抜くことは不可能だった。

昭和18年1月、米軍はキスカ島の東僅か170キロに位置するアムチトカ島にも飛行場を設け、アッツ、キスカへの空襲を強化、2月以降は艦艇を周辺海域に配置し日本軍の補給を妨げた。幌筵を出た輸送船団は悪天候に加え、米軍の待ち伏せ攻撃に遭い島に辿(たど)り着けず、3月10日、350人の増援部隊と弾薬などをアッツに送り込んだのが最後の補給となった。

補給路を断たれたアッツ(約3000人)、キスカ(約5700人)の両守備隊は孤立状態に陥る。かろうじて新任の指揮官山崎保代大佐と幹部が潜水艦でアッツ島に上陸できたのは、米軍上陸の僅か一月前、山本五十六長官が戦死した4月18日だった。

5月12日、艦砲射撃の援護の下に米第7師団の兵1万1000人がアッツ島の南(旭湾)と北(北海湾)の2カ所から上陸を開始した。北太平洋司令官キンケード少将がキスカ島を飛ばし、より西に位置するアッツ島を攻めたのは、キスカよりもアッツは防備兵力が少なく、また日本軍が建設中の飛行場完成を阻む目的もあった。キスカ在島の北海守備隊司令官峯木十一郎陸軍少将は、山崎大佐に敵撃砕を指示するとともに、中央に逆上陸作戦を進言する。

山崎大佐は水際での戦闘を切り上げ、米軍を内陸部に誘い込み地形を活(い)かしての抵抗戦に出た。飛行場建設に資材と労力が割かれ島の防備体制は脆弱(ぜいじゃく)だったが、それでも守備隊は奮戦、米軍1個連隊を撃砕、他の大隊を海岸線まで後退させた。苦戦に驚いた第7師団のブラウン少将は増援を要請したが、キンケード少将は激怒、即日ブラウン少将を解任した。

全滅は時間の問題に

米軍上陸を知った大本営はアッツ確保の方針を出し、増援部隊を逆上陸させ米軍を挟撃、殲滅(せんめつ)する準備に掛かる。古賀峯一連合艦隊司令長官も水上部隊主力に東京湾集結を命じた。

だが18日になると一転、反攻計画は放棄された。陸軍の発案という形を取ったが、実際は海軍が消極的だったのだ。古賀新長官は増援に熱心だったが、宇垣纏参謀長が「中央の掛け声に応じて我が連合艦隊の妄(みだ)りに北上せんとするを戒め」る(『戦藻録』)と記すなど連合艦隊司令部は、大部隊を北に送るだけの燃料が乏しいことを理由に、終始増援に後ろ向きだった。山本長官戦死の直後で指揮系統が混乱し、古賀は指導力を発揮できなかった。

5月20日、アッツ島守備隊撤収の大命が下り、陸海軍中央協定で将兵は「好機潜水艦で収容」すると定められた。だが大命は「撤収スルニ“務ムへシ”」と異例の表現を採った。米軍艦艇の包囲網を突破することも、輸送力の乏しい潜水艦による全将兵の救出も不可能に近く、目的完遂は期し難いからだ。実態は、アッツ救援断念と“守備隊の放棄”であった。

しかも、時既に遅し。一切の補充も受けられず、アッツ島守備隊は1000人を切るまでに減少し、全滅は時間の問題だった。樋口季一郎北方軍司令官は山崎大佐に「最後に至らば潔く玉砕」せよと命じた。5月29日、山崎大佐は最後の総攻撃を決意する。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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