戦線縮小し邀撃戦略へ回帰
米アッツ島上陸で出鼻を挫かれる

古賀峯一大将の就任
これまで見てきたように、連合艦隊司令長官山本五十六は真珠湾作戦以後の明確な戦略を持ち合わせていなかった。ひたすら攻勢を掛け続け米海軍を壊滅に追い込み、早期講和の機会を掴(つか)むという程度の短期決戦構想しかなかったのだ。だがミッドウェイでの大敗とソロモンの消耗戦で、勝機も講和獲得の機会も遠のいた。多くの搭乗員と航空機、艦艇を失ったばかりか、彼我国力の格差は日増しに広がる一方であった。
何処(いずこ)に戦勝の契機を求めればよいのか、その答えを見いだせぬ山本には、押し寄せる米軍とのさらなる長期消耗戦を戦い抜く以外に術(すべ)はなかった。い号作戦の終了後、ひとまず態勢を立て直し、幕僚の入れ替えや部隊の再編、それに搭乗員の練度向上に力を注がねばと山本は思案していた。だが、その思い半ばでブーゲンビル上空に散り逝った。
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後任の連合艦隊司令長官には、横須賀鎮守府司令長官の古賀峯一大将が任命された。山本の戦死から1週間後の昭和18年4月25日、古賀はトラック島在泊の旗艦・戦艦武蔵に着任する。しかし山本の死は極秘扱いとされ、国民に公表される5月21日までの約1カ月間、古賀は直率のスタッフを持たず、表立って動くこともできなかった。
連合艦隊は事実上の休眠状態に陥ったのだ。戦局逼迫(ひっぱく)の折、信じ難いほどの悠長さである。では攻勢を強めつつある米軍はこの頃、どのような対日作戦構想を練り上げていたのか。
本格化する反攻作戦
米軍は昭和17年7月、ウォッチタワー作戦を発動する。8月7日にガダルカナル島に上陸し、日本軍が建設中の飛行場を奪取、また同島の北に位置するフロリダ島ツラギの日本軍水上機基地も占領した。ウォッチタワー作戦は、太平洋戦線における米軍最初の攻勢作戦で、日本軍にとっては初の占領地失陥となった。半年にわたる死闘の末、日本軍はガダルカナル島からの撤退を余儀なくされ、一方米軍は次の作戦準備と休養のため進撃を小休止させた。

米軍内部では次期作戦の構想を巡り、南方攻略とフィリピン奪還に固執する南西太平洋地域軍司令官マッカーサー大将と、中部太平洋を西に進みマリアナを狙う太平洋地域軍司令官ニミッツ大将が激しく対立する。だがマーシャル陸軍参謀総長が調整に入り両論併記で落着、昭和18年7月、統合参謀本部は並行して西進する2本立てのカートホイール作戦を決定した。
即(すなわ)ち、ニミッツ麾下(きか)のハルゼー大将が率いる南太平洋地域軍がソロモン諸島をニュージョージア島からブーゲンビル島へと北上、さらにニューアイルランド島のカビエンを攻略する。一方マッカーサー大将指揮の南西太平洋地域軍はニューギニアに上陸、ニューブリテン島対岸のユオン湾に位置するラエ、サラモア地域を押さえ、さらに西方のマダンに進出。そして両軍協力しニューブリテン島とニューアイルランド島を制圧しラバウルを攻略する。
その後、ニミッツの部隊は中部太平洋をギルバート諸島からマーシャル諸島、さらにカロリン諸島へと攻め進み、マッカーサーの部隊はニューギニア北岸を西進しフィリピン奪還に向かうという構想だった。後にラバウルは攻略・占領せず、無力化する方針に変更された。
この時期、米海軍の戦力は一段と強化された。海軍拡張法によって新鋭艦が大量に建造され、昭和18年半ば以降、航空機約100機搭載可能なエセックス級正規空母やインディペンデンス級軽空母(約40機搭載可能)、さらに新造の戦艦が続々と戦場に送り込まれた。
また弾頭に小型レーダーを付けたVT信管(電波近接信管)を実戦に投入し始めた。発砲後の時間経過で炸裂するそれまでの砲弾とは違い、半径15メートル以内に電波を反射する物体が近づけば、高度や方向に関係なく自動的に爆発する新兵器で、直撃せずとも航空機を撃墜できた。
操縦技量未熟な搭乗員の増加に加え、米軍が水上艦艇の対空火砲にVT信管を導入したことで、日本軍の航空機は次々と撃墜されていった。恐るべき米国の生産力と科学技術によって、日米の戦力格差は決定的なまでに開いたのである。
戦力の再編成と集中
トラック島に進出した古賀は、一人日米決戦に向け想を練ったが、必勝の秘策が思いつかないのは前任の山本と同じだった。しかも戦局は日増しに悪化しつつあった。そのうえ山本指揮の下で、日本海軍の現有戦力では到底支えきれないほどに戦線は拡大していた。
広大な太平洋に伸び切った各戦場、戦域のそれぞれには、限られた規模の兵力しか投入できなかった。兵力分散の愚を犯したのだ。このままではいずれの正面も米軍に各個撃破され、徒に損耗を重ねるばかりで増強著しい米軍の進攻を食い止められないことは明白だった。
この現状を憂慮した古賀は、思い切って戦力の再編成と集中を図り、作戦正面をソロモンから日本海軍が地の利を有するマーシャル諸島に絞り込む、そして同海域で乾坤一擲(けんこんいってき)の艦隊決戦を挑み、米艦隊を殲滅(せんめつ)し勝機を掴もうと考えた。日本海海戦の再来を期すものと山本が嫌い退けてきた邀撃(ようげき)戦略を、古賀は再び表舞台に押し上げようとしたのである。
その一方で、守り切れぬ各島嶼(とうしょ)の戦線は守備隊に自活を求めた。連合艦隊は救援の部隊を送れず全滅を強いることになるが、ほかに方策は無い。この考えの下、主力部隊の立て直しと整備のため、古賀がトラック島在泊の空母や戦艦部隊の内地帰還を命じたその矢先、遥(はる)か北方、アリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸(5月12日)、早くも古賀は出鼻(ではな)を挫(くじ)かれてしまう。常に米海軍が日本海軍の動きよりも数歩先を行くのである。
(毎月1回掲載)
戦略史家 東山恭三