【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(30) 山本五十六像の形成 阿川ら戦後秩序に則った山本像

「親英米、戦争に反対し軍縮に尽力」

戦後ナショナリズム

我々が知る山本五十六とは、①英米との協調を重視し軍縮条約成立を目指す条約派で②対米戦回避のため三国同盟に強く反対したが叶(かな)わず③己の信念とは真逆に連合艦隊司令長官として対米戦に想を練り④真珠湾作戦を立案、成功させ大戦果を挙げた稀代(きだい)の戦略家で⑤最前線で指揮を執る中、米軍機の攻撃を受け戦死を遂げた悲運の提督というもので、没後80年を経て、今や不動の山本像と言ってもよかろう。

しかし、山本大将の実像がそれらとはかなり相違することをこれまで眺めてきた。それでは、我々が抱く戦後の山本五十六像はどのような経緯で生まれたのであろうか。

戦後の山本五十六像をつくった阿川弘之著『山本五十六』

その答えは昭和40年代(1960年代半ば)にある。60年安保闘争が過ぎ去り、国内に平穏が戻った。高度経済成長も軌道に乗った時代だ。内政の安定と生活水準の大幅な向上によって戦後体制を首肯する意識が大衆に生まれた。同時に、戦後初めてもたらされた精神的ゆとりから、国家意識や日本人の来し方に目が向き始める(戦後ナショナリズムの萌芽(ほうが))。

もっとも、戦後の日本人にとって「戦前」は依然タブーであり、戦前と戦後の間には意識の断層が横たわっていた。そのため折からの明治百年ブームも手伝い、戦後ナショナリズムの向かう先は“古き良き明治”となり、戦前の20年間はすっぽり抜け落ちてしまった。

司馬遼太郎著『坂の上の雲』

そしてまさにそのタイミングを突いて、明治の日本人を称(たた)えたのが司馬遼太郎だった。司馬は昭和43年から小説『坂の上の雲』を新聞に連載。日露戦争での日本の戦いを肯定的に描き、秋山兄弟や山本権兵衛、東郷平八郎らを美化した。その一方、自らの従軍体験から昭和の前半を“異胎の時代”と嫌悪し、当時の軍人や戦争に生涯否定的な態度を貫いた。

だが大日本帝国を滅ぼしたとはいえ、昭和前半の日本は全否定さるべき時代なのか?一人ぐらいは後世の日本人が誇れるような指導者がいなかったものか、いやいてほしい。そうした想(おも)いに応えるかのように、阿川弘之は昭和40年に『山本五十六』を上梓(じょうし)している。東宝も「日本の一番長い日」に続く8・15シリーズ第2弾として、『坂の上の雲』連載開始と同じ昭和43年に「連合艦隊司令長官山本五十六」を公開し、文部省選定映画に選ばれている。

日本が独立を回復した後、山本を描いた映画や評伝はあった。だが今日の山本五十六像形成に決定的な影響を与えたのは、阿川や東宝映画に代表にされる昭和40年代の作品だった。

戦後秩序と溶け合う

阿川や東宝作品で描かれた山本の姿は冒頭に挙げたイメージに等しく、しかも当時定着しつつあった戦後秩序に抵触せず、むしろ溶け合うものであった。即(すなわ)ち①親英米=日米安保体制の肯定②戦争に反対し軍縮に尽力=戦後憲法の平和主義や吉田茂の軽武装路線に合致、そして③戦犯指定を受けず=「日本に戦争責任あり」とする占領史観に触れず、山本は戦後ナショナリズムの下でも受容し得る人物となったのだ。芽生えつつあった戦後ナショナリズムに合わせるように山本五十六像がつくり上げられたと言った方が正確かもしれない。

さらに、山本が志半ばで非業の死を遂げたことは、判官贔屓(びいき)の日本人が好む英雄像の要件を満たしている。指導力があり部下思いの山本像は、経済成長真っ只(ただ)中の猛烈サラリーマンには理想の上司像でもあった。

かくして戦後の山本像が生まれ、定着していった。そのイメージを壊し評価を覆すことは、戦後秩序や占領史観に触れ、戦後ナショナリズムの許容域を超えることになる。言葉を換えれば、日米安保体制や日米同盟が続く限り、また占領史観の克服がなされぬ限り、実際の山本とは乖離(かいり)した戦後日本人のつくり出した虚像の山本五十六像が今後も生き続けるだろう。

大石内蔵助と重なる

最後に、真珠湾攻撃に対する日本人の潜在意識の存在にも触れておきたい。占領史観に縛られ、しかも騙(だま)し討ちの汚名を浴びながら、なぜこの作戦が山本の評価を貶(おとし)めなかったのか。

真珠湾攻撃が実施されたのは12月、大業に向け関係者一同密(ひそ)かに想を練り、事を進め、米戦艦を屠(ほふ)り見事大業を成し遂げた。南雲機動部隊の様は、苦節を重ね、世を忍びながら機会を待ち、統率された大軍による奇襲を以(もっ)て仇敵吉良上野介を討ち取り、主君の無念を晴らし本懐を遂げた赤穂浪士に、そしてリーダー山本は大石内蔵助と見事なほどに重なる。源田実もその著書の中で真珠湾攻撃を“討ち入り”と称している。

英米の理不尽かつ執拗(しつよう)な妨害に耐え忍んだ末、人目を避け密かに大軍が真珠湾に殺到、奇襲による大戦果で本懐を遂げたと、当時の日本人の目には映ったのである。零戦や大和と並び、真珠湾攻撃を誇らしく語る日本人は今も多い。この3点セットだけは、忌むべき侵略戦争に踏み切ったと説く占領史観の呪縛から外れる。

日本人が好む判官贔屓に忠臣蔵の敵討ち話まで付帯するとなれば、国民の山本五十六評価が高いのは当然とも言える。日本人の国民性が変わらぬ限り、真珠湾攻撃の武勲と山本人気に陰りが出ることはあるまい。

もっとも、赤穂の浪人は主君仇敵の首級をあげ文字通り本懐を果たしたが、真珠湾攻撃は緒戦にすぎず、対米戦はこれからが正念場だった。だが、国民は米英に対し本懐を成し遂げたかの満足感に包まれた。日中戦争以降の鬱屈(うっくつ)した意識は真珠湾攻撃の報で一挙に晴れ、久々に爽快な気分に浸った。この先に待ち受けるであろう苦難に意を払うこと薄く、これが国民の油断と驕(おご)りに通じたことは不幸であった。

(毎月1回掲載)

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