
京都駅から兵庫県の城崎温泉行きの特急列車に乗った。外国人観光客のグループも結構乗り込んでいる。列車は丹波地方の盆地を縫うように進み、沿線の里山にはたわわに実った柿の実が美しく色づいている。
外国人客も日本の秋景色を静かに満喫している風だった。ただ、近くに席をとった日本人の中高年の女性2人連れが、辺りを憚(はばか)る風もなく、ずっとしゃべり続けているのはあまりいい感じがしなかった。
久しぶりに会った友人同士のようで、話が弾んでいる。美味(おい)しい食べ物屋さんや家族のことなどで、時々笑い声も聞こえる。それに文句をつける理由はないが、品位を感じさせるものではなかった。
名作「城の崎にて」を書いた志賀直哉の初期の短編に「網走まで」がある。宇都宮の友人に会うために上野駅から汽車に乗り込んだ主人公が、小さな男の子と赤ん坊を連れた若い女性と相席になる。そして、網走まで行くという女性の人生に想像を巡らすという話だ。
この短編を久しぶりに列車の中で読んで、女性が話す言葉の美しさに感心した。昔の東京の山の手言葉のようだが、子供をなだめすかしたり、主人公に話したりする言葉に自(おの)ずと品位が感じられる。
日本語ほど男性、女性で言い回しが異なる言語はないだろう。美しい女性言葉が消えていくのは、残念というよりもったいない。「城の崎まで」の列車の中で、図らずも日本人女性の話し方の大きな様変わりについて考えさせられた。