【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(29) 人間・山本五十六の実像 部下思いの情の厚さと尊皇の念

多面的で複雑な性格、茶目っ気も

答礼する山本五十六連合艦隊司令長官

上下問わずもの言う

真珠湾攻撃で名を遺(のこ)した山本五十六だが、戦略家というよりも軍政家として評価されるべき人材だった。連合艦隊司令長官ではなく、海軍大臣が相応(ふさわ)しかったのではないか。ところで多くの処世訓や格言を残した山本は、統率力に溢(あふ)れ、また情に厚く部下思いの指揮官だったと思われている。果たしてどうか。側近や部下など当時の山本を知る人たちの証言や記録を基に、人間・山本五十六の実像を追ってみた。

山本は本来寡黙な男だった。それが災いし、作戦の意図や狙いを部下、幕僚に伝えることが少なく、ミッドウェイ作戦など幾度も問題を招いた。最高指揮官として重大な欠点だ。ところが時に能弁となり舌鋒(ぜっぽう)も鋭く、辛辣(しんらつ)な毒舌さえ吐くこともあった。己が正しいと思えば公の場でも相手の役職、階級の上下を問わず反論、ずけずけとものを言うので敵も多かった。高揚と落胆の差が大きい山本の性格を、千早正隆元海軍中佐は躁鬱(そううつ)症だったと断じている。真珠湾攻撃の時は躁、ミッドウェイ作戦の頃は鬱になっていたという。

高木惣吉海軍少将

半面、茶目っ気たっぷりで人を楽しませる一面も持ち合わせていた。昭和10年春、郷里新潟の加治川で花見船に乗っていた山本は突然、船上で得意の逆立ちを始め船頭を驚かせた。逆立ちしたまま流れを下る船を見た土手の花見客は、一斉に歓声を上げた。このエピソードは三船敏郎が山本を演じた映画「連合艦隊司令長官山本五十六」冒頭のシーンで描かれている。

大正8年米国赴任のため諏訪丸に乗船した時も、山本は船内の演芸会で逆立ちを披露し観衆から喝采が起きた。気を良くした山本はボーイから大皿2枚を借り受け皿回しを始めた。皿を回しながらの宙返りも見せ、その妙技に観衆は魅了されたという。酒は飲めなかったが、宴席ではいつも快活陽気で、新橋辺りの芸妓(げいぎ)らに最も人気ある海軍将官だった。

皇居への空爆恐れる

今日あまり語られないが、山本五十六は皇室に対する尊崇の念が篤(あつ)かった。新政府軍と戊辰戦争を戦った越後長岡藩の出身だったことが影響したのかもしれない。元海軍少将で山本の知己の一人、高木惣吉氏(海軍省教育局長など歴任)が存命だった頃、当時中学生の小生は厚かましくも手紙で質問したことがあった。稚拙な問い掛けに、病臥(びょうが)に伏せておられたにも拘(かか)わらず恐縮するほど丁寧な返書を頂いた。その書簡は宝物として大切に保管している。

ミッドウェイ作戦の拙劣な指揮を尋ねた小生に、氏は作戦の問題点を認めながらも、山本長官は「尊皇の心深く、皇居が空爆されることは耐えられなかった、その気持ちは理解してやる必要がある」との説明だった。但(ただ)しその後に「戦略は冷徹なもので、感傷的忠君思想や恩義などを偏重することは禁物です」と続いている。開戦当日、山本が書き残した遺書に、「大君の御楯(みたて)とたたに思う身は名をも命も惜まさらなむ」の一首がある。

その一方、山本は将棋やポーカー、ルーレットなど賭け事は何でも大好きで、一番の得意はブリッジ。本人はプロ級の腕前で「東洋では一番」と自慢していた。ただ手合わせした経験を持つその筋の達人の「山本のブリッジは見せ掛けのハッタリだけ」との評価もある。先の高木氏の返書も「天才的な感はなかったが、度胸の良さが補っていた」としている。

かように多面性のある山本の性格を評するのは難しいが、高官でありながら官僚臭が無く、勤勉実直だが俗っぽくもあり庶民的、そして部下思いの人と言えよう。連合艦隊司令長官当時、幕僚を相手に将棋を指す時はビールを賭けたが、勝負が終わると、皆が1本ずつ飲めるように山本が負けていたという。さりげない気配りと部下思いの一面が伝わってくる。

昭和4年1月のこと。空母赤城が広島湾で訓練中、一機が着艦に失敗、艦首から海中に飛行機ごと転落しそうになった。この時一人の士官が脱兎(だっと)の如(ごと)く飛行機の主翼にしがみ付いた。これを見て大勢が飛び出し機を抑え、危機一髪で海没は免れ搭乗員も助かった。部下の災禍を座視できず駆け出した人物こそ、艦長に着任したばかりの山本五十六その人だった。

兵卒にも丁寧に答礼

山本の人となりを語る上で特に強調したいのは、直属の部下だけでなく一般の将兵に対しても思いやりや情に厚かったことだ。部隊にあって日々、将兵から幾度も敬礼を受けるが、その際山本は常に真正面に向き合い、兵一人一人に丁寧に答礼している。兵卒の敬礼などと無視する将官も多い中、歴代連合艦隊司令長官の中で山本ほど一般の兵士にも丁重に答礼する指揮官はいなかった。いま一つ、吉田俊雄元海軍中佐が伝える逸話がある。

前線にあって山本は傷病兵の見舞いを絶やさなかった。い号作戦でラバウルに進出した時も海軍病院を見舞っている。ある時、両眼を負傷し眼(め)が見えない少年航空兵の傍らに近寄り、肩にそっと手を掛け、「山本だよ、分かるか」と声を掛けた。

「…あ、長官…」と彼は唇を震わせた。「視神経をやられている」と説明する病院長に山本が「全快の見込みは」と問い掛けると、病院長は口ごもった。

山本は「軍陣医学の名誉に懸けて治さにゃならぬ。帝国海軍は、決して君を見捨てやしないよ、また海の上で会おうよ」と語り掛けた。山本が退室し靴音が遠ざかると、その少年航空兵は、わっと声を上げてベッドの上に泣き伏したという。

軍政や戦略における評価、功罪とは関係なく、この指揮官の為(ため)なら己が命など惜しくはないと思った部下将兵が数多くいたことは疑い得ない。

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