トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(28) 戦略家・山本五十六の実像(下) ミッドウェイの拙劣な作戦指導

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(28) 戦略家・山本五十六の実像(下) ミッドウェイの拙劣な作戦指導

攻撃絶対主義を信奉する精神論者

艦砲射撃で破壊されたガダルカナル島のヘンダーソン飛行場

作戦の主目的が曖昧

ミッドウェイ作戦については、米空母の撃滅か島の占領なのか、作戦の主目的が曖昧だったと批判されている。発案者の山本五十六自身が両目的を併存させ曖昧な考えでいたのだ。空母撃滅は、制海権の獲得以上に空母艦載機による日本本土空襲の阻止に狙いがあった。日露戦争の際、ウラジオ艦隊が太平洋岸を襲い、国民が動揺を来した事態の再来を彼は恐れたのだ。

一方、島の占領は巷間(こうかん)伝えられている米空母誘出だけでなく、実はハワイ攻略の前哨戦と捉えていた。真珠湾作戦の成功を受け、また騙(だま)し討ちとなり米国民の戦意は失墜するどころか逆に高まったことから、米国を屈服させる決定打としてハワイの占領を山本は考え出す。

特殊潜航艇甲標的

まずミッドウェイ島を確保、そこを拠点に秋口頃ハワイ攻略に出る算段だった。だが米軍最大の基地ハワイの占領は至難であり、占領しても補給は維持できず実現可能性は皆無に近い。それでも真珠湾奇襲成功の自信から、再び思い付きの作戦を重ねようとしたのだ。

しかも、作戦の真意を山本は実施部隊にも軍令部にも伝えなかった。また真珠湾作戦の時とは違い、ミッドウェイ作戦では立案の細部は黒島亀人参謀に任せ切りで、山本はほとんど関与しなかった。関係者の入念な打ち合わせも経ず、インド洋から帰投したばかりの南雲部隊には休養も練度向上の時間的猶予も与えず、即出動が命じられた。全軍に驕(おご)りや慢心が蔓延(はびこ)っていたとはいえ、作戦目的の曖昧さや幕僚任せの作戦指導、杜撰(ずさん)な準備、さらに司令部と実施部隊の意思疎通の欠如等々、山本に帰すべき責任はより重いものがある。

その上、空母機動部隊の後方500海里に、山本が座乗する大和以下戦艦7隻を基幹とする本隊が展開した布陣も批判を浴びている。ミッドウェイでの航空戦を支援できない遠距離に位置したため、大軍を率いながら戦艦部隊は何の戦果も挙げられなかった。ウェーキ島攻略の戦訓を活(い)かし、配置を逆にして本隊を前方に進出させミッドウェイ島に猛烈な艦砲射撃を敢行、駆け付けて来た米空母部隊を後方に控える南雲部隊の艦載機が強襲すれば、戦闘の結末は大きく異なっていたであろう。

ミッドウェイの大敗後、勝機を見失った山本の戦争指導は精彩を欠くものとなった。唯一存在感を示したのは、彼が発案した昭和17年10月の戦艦によるガダルカナル米軍飛行場への艦砲射撃だった。意表を突き米軍を大混乱に陥れた。だが同じ戦法を繰り返し、2度目からは戦果を得られなかった。

逆に米軍は日本の作戦をヒントに、当時タブーとされていた軍艦による陸上砲撃の戦術を精緻化させた。航空機で攻撃目標の正確な位置を掴(つか)み、そこに凄(すさ)まじい砲撃を加え、サイパンや沖縄戦で日本軍地上部隊に大打撃を与えたのである。

ソロモン諸島の日米争奪戦が長期化する中、先の見通しも立たぬまま山本はひたすら前線部隊に積極攻撃や督戦を求めた。一つ逸話を紹介したい。昭和8年夏、横須賀海軍航空隊での空戦研究会の席上、柴田武雄少佐は戦闘機の装備に関し「敵爆撃機の防御機銃圏外の遠距離から発射できる強力な機銃の開発と遠距離から照準できる照準器開発」を要望した。

この発言に対し当時航空本部技術部長だった山本は「今若い士官から射距離を延ばすという意見が出たが、言語道断である。帝国海軍の今日あるは肉薄必中の伝統精神にある。今後1メートルたりとも射距離を延ばすことは絶対に許さん」と言い放った。今日、山本には合理主義者のイメージが伴うが、実際の彼は攻撃絶対主義を信奉する精神論者だった。

短期戦に固執し損耗

山本の攻撃絶対主義は、米国との短期戦を前提としていた。彼の短期戦への拘(こだわ)りは日米の国力差への懸念からと説明されるが、それだけではない。日露戦争のイメージから抜け出せず、総力戦に対する理解と認識が不足していたのだ。総力戦の時代に短期決戦は求め難い。

山本は航空機を重視し先見の明を示したが、戦闘での勝利にのみ固執し、総力戦下の航空戦力の在り方(要員養成や飛行場建設力等)に目を向けぬまま消耗戦に突入し、多くの航空機と優秀な搭乗員を失った。国力格差を誰よりも深く憂慮した山本が、皮肉にも国力格差で負ける戦に日本を追い込む張本人となったのだ。

勝つこと叶(かな)わぬ戦争を始めざるを得ないのであれば、華やかな戦術的勝利を追い求め甚大な損耗を招かぬよう正面切っての決戦を回避し、戦線を野放図に広げず、政治決着に持ち込める機会が到来するまで粘り強くしぶとい戦いに徹し、時を稼ぐ戦を為(な)すべきではなかったか。これは山本一個人を超えた、国家としての戦争指導の在り方に関わる問題でもある。

特殊潜航艇への期待

ミッドウェイで惨敗を喫した直後、柱島泊地に戻った山本は呉海軍工廠の朝熊利英水雷部長を大和艦上に招き、「1千隻の甲標的を半年以内に造れるか」尋ねた。甲標的とは、生還の望み薄き特殊潜航艇である。特別攻撃隊として真珠湾作戦に投入されたが、捕虜になった1人を除き5隻の乗員9人全員が帰還を果たせず散華した。

半年は無理だが海軍が全力を挙げ支援してくれるなら1年半あれば造って見せるが、甲標的に積む魚雷の生産は間に合いそうもないと朝熊が答えたところ、山本は「魚雷はいらん。甲標的の頭部爆走だけでよい」と応じた。早くも昭和17年の初夏、体当たり戦法に想を巡らせていたのだ。

山本は、人が思いつかぬ奇抜な発想や奇策を好んだ。先の戦争は彼の奇策で始まり、常道を逸した特攻で幕を閉じた。山本の寵愛を受けた大西瀧治郎や黒島亀人、それに源田実の3人が特攻作戦を発案し、その主導者となった。単なる偶然とは言えまい。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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