トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(27)戦略家・山本五十六の実像(上)強引に漸減邀撃戦略を変更

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(27)戦略家・山本五十六の実像(上)強引に漸減邀撃戦略を変更

戦争全般の戦略構想を持たず

粗雑な山本の攻撃案

連合艦隊司令長官時代の山本五十六

連合艦隊司令長官となった山本五十六は、日米戦不可避となった場合、尋常一様の戦法では日本は勝機を掴(つか)むことができず、「桶狭間と鵯越(ひよどりごえ)と川中島を併せ」(昭和16年10月嶋田繁太郎海相宛て書簡)た奇想天外の作戦が必要として、開戦劈頭(へきとう)の真珠湾奇襲攻撃を強引に主導した。結果、米太平洋艦隊の戦艦群に大打撃を与えたが、彼の戦略思考には大きな問題があった。

我々が知る真珠湾作戦は、昭和16年1月、山本の指示を受けた第11航空艦隊参謀長大西瀧治郎と連合艦隊首席参謀黒島亀人、それに第1航空戦隊参謀源田実が工夫を重ね練り上げたものだ。山本が大西らに示した当初の構想は①目標は真珠湾の戦艦(空母ではない)②攻撃方法は第1・第2航空戦隊による雷撃③ただし片道攻撃とし雷撃不可能なら中止―という作戦構想とは呼び難い粗雑な代物だった。搭乗員の収容救出も覚束(おぼつか)ない思い付きの案を短期間に精緻化させ、実際の真珠湾作戦に高めた大西らの努力こそ称(たた)えられるべきだろう。

山本の信任厚かった大西瀧次郎

独創性についても、昭和初期から山本は真珠湾攻撃を説いていたといわれ、昭和15年3月の艦隊訓練の際、福留繁参謀長に「雷撃機でハワイをやれんものかな」と呟(つぶや)いているが、いずれも着想の域を出ない。実行の決断に当たっては、昭和15年11月に欧州戦線で、空母を発艦した英軍機がイタリア・タラント軍港を空襲し、雷撃で戦艦に大損害を与えた「ジャッジメント作戦」に影響を受けた可能性が高い。

日米の絶望的な国力格差を重く見た山本は、国力がモノを言う長期戦になれば日本は米国に勝てない。それゆえ短期戦で決着をつけることを絶対の前提とし、初戦で米国が誇る戦艦部隊を壊滅に追い込む、さらに積極的な攻撃作戦の連続で立ち直る余裕を与えず、米国民が戦意を喪失した機を逃さず有利な条件で講和に持ち込む以外に途(みち)はないと考えた。

日本海軍の本来の対米戦構想は、西進する米海軍を徐々に減殺し、日本近海での艦隊決戦で一挙に屠(ほふ)る漸減(ぜんげん)邀撃(ようげき)戦略だった。日本海海戦を踏襲したものだが、待ち受けの防勢作戦では戦が長引く。米海軍が日本近海に進出する保証もない。そこで山本は部内調整を一切経ず独断でこの戦略を退け、構想に無かった真珠湾作戦を強引に認めさせ、断行したのである。

虚像だった“米国通”

山本は、軍令部勤務の豊富な海軍本流のエリートに強い対抗心と反発の感情を抱いていた。彼らが金科玉条の如(ごと)くに奉る漸減邀撃戦略を無視し、また主流派が信じて疑わぬ大艦巨砲主義を批判したのは、そうした彼の屈折した意識と無関係ではない。だが手順と合意形成を無視した傲慢(ごうまん)なやり方は、戦闘にさえ勝てば咎(とが)めを受けずに済むものだろうか。

真珠湾に向け北方航路を進む機動部隊

別の問題もある。長期戦や米本土占領は不可能、空襲で脅威を与えることもできず、ただ太平洋艦隊を殲滅(せんめつ)する程度の戦術的勝利で、米国民の戦意喪失を期待した彼の想定の甘さだ。しかも奇襲攻撃を仕掛ければ、米国の反日世論が一挙に沸騰することは自明の理だ。

西部劇を見れば分かるが、米国民はマッチョ意識が強い。卑怯(ひきょう)な戦い方をする相手を決して許さず叩(たた)きのめす。米西戦争でのメイン号事件や第1次世界大戦のルシタニア号撃沈等史例に顧みれば、奇襲や警告無しの開戦は避けるべき戦法だった。しかも米市民が教会に出掛ける日曜朝の攻撃は、最悪のタイミングと言わざるを得ない。

2度の米国滞在経験を持つ山本は一般に米国通とされるが、仮に開戦通告が間に合っていたとしても、騙(だま)し討ちに遭ったという米国民の憤怒の思いは拭い難く、激しい反日感情や徹底抗戦の決意を掻(か)き立てるであろうことを見通せずして、果たして米国通と言えようか。

山本の後任の米国駐在武官となった伊藤整一は米軍人と交わり、特にスプルーアンスと友情を深めたが、山本が米海軍に知己友人を得た話は聞いたことが無い。在米時の逸話の多くは、日本人相手にポーカーやブリッジに耽(ふけ)る山本の姿だ。米国の強大な国力を恐れ対米戦に反対したが、米国の産業や航空機に関し彼が本国に詳細な報告書を送ったとも伝わっていない。リンカーンを尊敬していた山本だが、どれだけ深く米国を学んだのか疑問である。

真珠湾後の構想なし

開戦前、攻勢作戦の連続実施を説いた山本だが、真珠湾作戦の後、彼は米太平洋艦隊に対する攻撃の手を緩め、空母の捕捉殲滅に動かなかった。南雲機動部隊は南方攻略の支援や遠くインド洋に送り込まれた。短期戦に固執する山本ならば、間髪を置かず米空母殲滅に動くべきであった。だが長期持久を前提とする南方作戦を優先させ、劣勢に追い込んだ米太平洋艦隊の息の根を止める絶好の機会を自ら逃したのだ。なぜか?

大勝に驕(おご)った面もあろうが、開戦前、初戦の真珠湾作戦に掛かりきりで、その後の具体的な戦略や作戦構想を持ち合わせていなかった事情が大きい。ハワイでの勝利の後に、その後の戦ぶりを考え始めたのだ。漸減邀撃戦略を廃したものの、山本はそれに代わる長期構想を最後まで提起できぬまま、ただ攻勢を説き続けブーゲンビル上空に散って逝った。

一方、苦境に立たされながらも米太平洋艦隊の戦意は衰えなかった。米西岸に撤退することもなく、数少ない空母をフルに活(い)かし、南太平洋に散在する日本軍各基地へのヒットエンドラン攻撃を繰り返し、揺さぶりをかけてきた。真珠湾後、事後の作戦遂行に指導力を見せなかった山本もこの事態に慌て、ミッドウェイ作戦の実施を主張し始める。真珠湾作戦から既に4カ月が経過していた。しかも大きな問題を内包させたまま、再び異論を抑え、ごり押しでこの作戦を押し切ったのだ。

(毎月1回掲載)

戦略史家東山恭三

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