中国では古代、異変は「陰陽五行」の不調和によるとされ、人々はそこに天啓を感じ取ろうとした。天啓と言わなくとも、何らかの「意味」を探ろうとするのは古今東西、人の常である。
鴨長明が『方丈記』で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と書き起こしたのは、元暦2(1185)年に発生した都の大地震で無常を感じ取ったからだ。日蓮は正嘉元(1257)年の正嘉地震から「内乱」と「外敵」の危機を見抜き、『立正安国論』を説いた。
ポルトガルではカトリックの祭日「万聖節」にリスボン大地震(1755年)が発生し、教会にいた数千人が犠牲になった。これを契機に「慈悲なる神」の存在を巡る一大論争が巻き起こり、「啓蒙(けいもう)の時代」のヨーロッパに思想的津波をもたらし。
100年前の関東大震災(1923年)ではどうだったか。実業家、渋沢栄一は次のように言う。「近来、政治界は犬猫の争闘場に落ち、経済界もまた商道が地に落ち、風教の退廃は有島事件(作家、有島武郎の情死事件)のごときを讃美するに至ったから、この大災は決して偶然でない」(『万朝報』)。こんな感じ方もあるのである。
もとより地震は自然現象だが、そこに「意味」を探り、運命を切り開こうとするのが人間である。昨日の「防災の日」では自助の大切さを肝に銘じた方も多かろう。
「備えなき者は滅ぶ」(マキャベリ)。災害も有事もリアリズムで臨みたい。