
近くで、何かを連続して打ち付けるような小さい音がした。しばらくするとパタリと止(や)む。不思議に思っていると、またパタパタと音がする。
窓を開けてみると、ベランダの隅にアブラゼミが仰向けになっていた。音は起き上がろうとするセミの羽音だった。ふと、松尾芭蕉の「しづかさや岩にしみ入る蝉の声」の句が浮かんだ。
この句は、うるさいほどのセミの声でかえって静寂になるという印象を強めるものとなった。セミの声はどこか寂しさを感じさせると同時に不思議な静寂をもたらしてくれる。林で鳥やセミの声が聞こえないと、静かというよりも不気味に感じることが多い。
セミの声が静寂を招くという感覚が生じるのは、鳴き声が自然と調和している気がするからだろう。夏の暑さとともに始まり、秋に終わってしまうセミの声。夏と切り離せない風物詩だと言える。芭蕉が句を詠んだ時にセミが何匹だったかは分からない。だが、なぜか多数鳴いていた光景が想像される。
その連想になるが、江戸時代の東北の藩を舞台にした藤沢周平の代表作『蝉しぐれ』が思い浮かぶ。この小説でも、せみ時雨が主人公の心理に寄り添う効果を与えていた。青年の苦悩がセミの声に響き合う。
ベランダのセミは羽音ばかりで鳴き声が聞こえない。鳴かないメスかもしれない。セミの短い生涯を思うと、懸命に生きるイメージがある。決勝戦が間近な高校野球でプレーする甲子園球児の姿がそれに重なる。