お盆にやって来た台風は北の海へと去って行った。それで宮沢賢治の『風の又三郎』も台風の日に去って行ったことを思い浮かべた。それには「雨はざっこざっこ雨三郎 風はどっこどっこ又三郎。どっどど どどうど どどうど どどう」とある。
線状降水帯はまさに「どどうど どどう」だった。雨三郎よ、又三郎よ、少しは手加減してほしい。そう念じるほかない。
それにしても台風はなぜ、お盆に? 先の大戦で海外で亡くなった240万人の日本人のうち、いまだに112万柱の遺骨が収容されず戦地で眠っている(小紙16日付)。その方々が千の風になって帰ってこられたのか。
賢治と縁の深い岩手県東山町(現一関市)の町長だった菅原喜重郎氏(後に衆院議員)は復員後、同志社大学神学部に学び、キリスト者となった。生前、8月にお会いすると、決まって陰鬱(いんうつ)な表情をされていた。「反戦」が理由ではない。
戦中、多くの青年は「日本国の為(ため)に、大東亜の為に」と念じて散っていった。その精神を後世に伝えず、戦前を全て否定する戦後体制への憤りからだ。「日本国の為に」という日本人がいなくなれば、誰が国を支えるのか。日本国はむろん「世界の為に」。それが氏の信条だった。
一関市東山町には、終戦直後に復興を祈念し建立した賢治碑がある。それにはこうある。「まずもろともに かがやく宇宙の微塵となりて 無方の空にちらばらう」。どこか千の風に通じている。